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山崎の戦いを歩く

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「軍師官兵衛」もたけなわ、中国大返しを経て、いよいよ山崎の戦いということで、現地視察。
位置を確認しておきましょう。



大阪方面から、京都へ入るには、西国街道の宿場であるこの山崎を通らねばなりません。しかし北からは山、南からは川(しかも合流地点)に挟まれた、くびれた場所になっています。本能寺で信長を倒したものの、細川藤孝や筒井順慶からの協力を得られない中、西方からの秀吉軍のすばやい進撃に備えなければならなくなった明智光秀は、この土地で迎撃をすることにしたわけです。

京都駅からJR東海道本線で15分ほど、山崎駅に到着です。



駅前のコンビニはデイリーヤマザキです。山崎のヤマザキです。



駅前ロータリーの真ん前に、名高い「妙喜庵」があります。日本で最も駅近な国宝なんじゃないかと思われる「待庵」は1ヶ月前の予約制ということで、全く見ることはできません。



歩いた順番とは逆になりますが、ここからはせっかくなので秀吉軍の進路に沿って、西からご紹介していきます。

西国街道


西国街道はJR線と淀川に挟まれるかたちで走っている。新幹線も、阪神高速道路は、さらにその外側を走っているイメージだ。それらが発達しているから、旧街道沿いはとても静かです。

山崎駅から1.5キロほどのところにある、水無瀬神宮。



神門(桃山時代)。石川五右衛門の手形があるということだが、目を凝らしてもどれが手の形なのかわからなかった。



ここは、大阪府で唯一の名水百選ということで有名だ。サントリー山崎蒸溜所の仕込み水も、おそらくこれと同じ水質なんだろう。この日の気温は34℃。うまかった。



いい感じの、風情ある旧道がつづいています。
街道沿いの古そうな木。昔の旅人も目にしたことだろう。



サントリー山崎蒸溜所も見える。ここまで来ておいて、中に入らないというのも我ながら奇特だ。



実は山崎駅からすぐのところに国境がある。ここから東が山城国=京都府乙訓郡大山崎町。西が摂津国=大阪府三島郡島本町。だから、サントリー山崎蒸溜所は京都なイメージが強いが、住所は大阪府なのである。このあたりが国境。



国境にある関大明神社。本殿は室町時代ということだから、山崎の戦いに参加した兵士たちもあるいはこれを横目に戦場に向かったかもしれない。



離宮八幡宮。かつては、油の専売権を持っていて、境内には「本邦精油発祥地」「守護不入」といった石碑が並んでいた。斉藤道三もここで、という伝承もあったようだ。



山崎八幡宮は、社領こそわずかだが、油の専売権をもっていて、この八幡宮のゆるしがなければ、油を売ることも、原料の荏胡麻を産地から運んでくることもできない。

<中略>

いまは境内も縮小し、参詣者もほどんとなく、村の鎮守といったかっこうになってしまっている。
司馬遼太郎「国盗り物語〈1〉


天王山


さて、山崎駅を通り過ぎ、JR線をまたいで、背後に聳える天王山に登ります。



急坂を登り(すでにこの時点で息切れ、猛暑で汗みずくに)、後方から徐々に前進してきた秀吉も本陣を敷いたという宝積寺に。

もし光秀が、秀吉に倍するほどの兵力をもっていたとしたら、かれは、山崎の隘路口(天王山と淀川の間)を揉みにもんで出てこようとする秀吉軍を、この隘路口で撃滅できたであろう。隘路口で撃滅するには、光秀は天王山に大舞台を据えておくことが要訣だったし、秀吉のほうも、光秀にそうさせぬためにこの山を奪っておくことはむろん必要であった。

が、光秀の側は兵力不足だった。

司馬遼太郎「播磨灘物語(4)




この裏から、登山道が伸びています。なかなか厳しい山道。竹やぶの向こうから、時折新幹線の走行音が聞こえてきます。



立ち止まるとすぐに蚊が寄ってくる。登ること30分ほど、ようやく視界が開け、秀吉が千成ひょうたんの旗印を掲げたという地点に。



…しかし読めない。この夏は見に来るひとも増えるだろうから、整備が待たれるw。



高速道路のあたりを流れる川を挟んで、手前右側から池田恒興、中川清秀、高山右近の軍勢、そして向こう側に斉藤利光。ここから左後方、山腹に黒田官兵衛が布陣したそうです。



秀吉は全軍に総攻撃をくだした。ことに淀川の川床を進む右翼部隊をつぎつぎと増加し、前進させた。かれらは砂地、浅瀬を蹴って進み、その前進が異常なほどに早かった。

<中略>

これに斎藤隊はおびえ、退却を開始した。

司馬遼太郎「新史太閤記 (下巻)


新選組も登った


天王山は、それから280年後、再び戦いの舞台になっています。
幕末、京都から追い落とされた長州藩が、復権を狙って挙兵した「禁門の変」です。結局は敗れた真木和泉や肥後藩士らが天王山に立てこもり、新選組に包囲され自刃しました。さらに登った場所に、真木ら十七名の墓が。



永倉新八の記録によれば「敵より声ヲカケ、我ハ長門宰相ノ臣牧和泉互ニ名乗ラレテ戦イイタサン、我モ徳川ノ旗官ノ者ニテ近藤勇ト申」と名乗り合ったあと、17名は小屋に火を放って自刃。「実ニ敵ナカラ討死感心ナリ」と述べています。



肥後藩士の墓。



酒解神社


頂上まであと少し、のところに、酒解神社があります。
こちらは奈良時代の創建。
この本殿は雷で一度燃えており、1820年の再建。



このフェンスに囲まれた神輿庫は、板倉造という様式では国内最古で、国の重要文化財。釘を使っていないらしい。改修をしながらも現在まで同じ建物。



掃除をしていた爺さんが、「せっかく来たんやから」と説明をしてくれた。
近づいてみると、四方はすべて分厚い一枚板を組み合わせて建てられている。なるほど、これはすごい。
「見てみぃ、壁や柱にところどころ古い木材があるやろ。これが奈良時代に建てられた時のものと言われてんねん。京大の先生たちが来て、炭素年代で調べとった。」
「ということは、これは秀吉が戦ったときもここにあったということですね」
「まあ、そういうことやなw」



境内には、水がひっきりなしに音を立てて流れていた。井戸があるんですかと尋ねると、この真下を通っている阪神高速道路のトンネルから染み出してくる地下水を汲み上げているということだった。



西国街道、時折音が聞こえてくる新幹線、地下の阪神高速道路。今も昔も交通の要衝である。

帰宅してサントリーのCMどんなだったかなと思ってみたら、写真に撮ったところが結構出ててました。



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次回、勝竜寺跡を歩く。

ソレイユの丘/井上成美旧邸

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ソレイユの丘


一度は雨の予報だったので家で過ごすつもりでいたが、朝になると横須賀方面は晴れの予報に変わっていた。雨が残る都内を8時に出て、横須賀へ向かった。



横須賀市が運営しており、入場は無料。
ただし、駐車場1,000円、場内のゴーカート600円など、それぞれお金はかかります。レストランも、しらす丼や海軍カレーなど、ご当地グルメを出すお店、バーベキューなんかもありますが、観光地価格でした。
しかし持ち込みは可なので、テントを持ってきて弁当を広げる家族もちらほら。



場内は広く、花畑や野菜の農園、ハーブ園や厩舎などが点在し、とても気持ちいい。遊具だけでなく、水遊びができる池も何ヶ所もあり、これからの季節、家族連れには最高だと思います。露天風呂からは海が見える温泉(ただし天然に非ず)もあります。これは家の近くにほしいです。



ちょうどIZAM夫妻がロケをしておりました。間近で見る吉岡美穂は確かに綺麗で、なぜにIZAM氏と…?という思いを今更ながら強くいたしました。

すぐ近くには漁港がありまして、地元の人がやってるっぽい物産店では各種しらすと地ダコが売ってました。おみやげに買って帰りました。同じものが周辺のスーパーで売ってますが、いくらか価格に乗ってますので、ここで買うのがオススメです。



長井海の手公園 ソレイユの丘
海と夕日の湯
かねしち丸直売所

井上成美旧邸


ここからは関心のある方のみ。井上成美という人を知っていますか?

戦前は徹底して開戦に反対し、戦中は海軍兵学校長として英語教育継続を強行、昭和19年には海軍次官となり、終戦の準備を始めるも大将進級と同時に退官。以後は密かに終戦工作に尽力。終戦後は、20代で未亡人となった一人娘と孫と隠棲。娘は29歳の若さで死去。のち、親類に引き取られるまで1人で孫を育てる。教え子や関係者が援助を申し出るもそれらを頑なに拒んだ結果、生活は困窮を極めていたという。
(一緒に終戦工作をしていた高木惣吉の記念館は出身地の熊本人吉にありますが、昨夏訪れた際は休館日で見学できず!)

その傍ら、近傍の子どもたちを集め、英語や音楽を教え続けた。こちらも、謝礼などは頑として受け付けなかったという。

何年か前、阿川弘之の"海軍提督三部作"、すなわち「山本五十六」「米内光政」「井上成美」(刊行順)を立て続けに読んだ。僕はその中でも「井上成美」をいちばん面白く読んだ。二人に比べて知名度では明らかに劣るが。仕事も家庭も、とにかく頑固一徹、ダメなものはダメ、というのが度外れていた人である。
どう考えても、同僚や上司にいたらちょっと困る。一緒に仕事をするなら山本・米内であって、井上のようなタイプの人間は、真っ先に嫌われて、孤独になってしまうはずだ。家族とてたまったものでは無かったはずだ。

けれども彼のその頑固一徹さが後世に遺したものー、つまり井上が守りぬいた教養教育で育ち、戦後日本を支えることになる数千人の教え子たち、また終戦への功績を思うとき、なんとも不思議な読後感に襲われる。

阿川さん自身が海軍士官だったこともあるし、いわゆる陸軍悪玉論(=海軍善玉論)的な観点から、敢えて書いていないこともあるのかもしれないけれど、その点を割り引いても尚、井上の生き様は胸に迫るものがある。社会生活を送る者として、"正しさ"とはなにか、考えさせられない人は居ないはずだ。
そういう意味で、僕はこの人の生涯に感銘を受け、読後も気になる存在だった。

この井上が戦前に建て、戦後から1975年に亡くなるまで住んでいたのが、横須賀市長井の自邸だ。記念館になっているということ、また、現在は閉館しているということを知っていたので、すぐ近くにある「ソレイユの丘」に行くついでに、見に行ってみた。

「ソレイユの丘」から眺める井上邸方面。



たまたま入った路次に観明寺というお寺があった。そこから伸びる坂道を登っていく。



切り通しや未舗装の道を登る。畑が広がるのどかなところだ。



記念館の周囲は草むしており、ネットで見たとおり、閉館している。





亡くなる日の夕方、庭から海をずっと眺めていたという、その景色がこれだ。



これだけでも満足と思い、来た道を戻っていると、近くの家のご婦人が門から出てきたところに出くわした。会釈を交わして行き過ぎたが、もしかして何か事情を知っているかもしれないと思い、振り返って
「あの、あそこはずっとしまったきりですか?」
と尋ねると、
「そうなんです。とても残念ですが…。
 ただ原稿か何かと、愛用の鞄くらいしか、展示されているものはないようですけれど。
 何か本をお読みになっていらしたんですか?もしかして阿川さんの本ですか?そうですか。亡くなった義理の父に取材をしに、阿川さんがいらしたこともあります。本の中で父の名前が何度か出てきますよ。」

「大将は、それは頑固な感じというか、どう接したらいいのかわからないような雰囲気の方で、いつもここを歩いて買い物などに行かれていました。」
と、立っている地面を指さした。

「えっ、ご存知なんですか?」
「挨拶をすると、こう敬礼を…。」
「皆さんがですか?」
「いえ、大将が、私たちに対してするんです。ビシッと、いつまでも。」
「えーっ!?」

「奥様は…後妻さんだったということですが、いつも着物を着て、髪もきちんと結って、時にはうちに寄ってお茶を飲んでいかれました。私は帯を頂いたこともあります。私の父も海軍で、大将ではなく中将だったのですが、私がここに嫁いで来た後、一度大将をお伺いしたことがあって。父は大変喜んでいました。なんなら君たち夫妻が井上家を継いでくれよって言われたりもしましたが…」

「この辺りの方に英語を教えていたということですが。」
「私ももう70歳になりますが、この下の観明寺の住職さんのお父さんなど、教わっていたのはもう少し上の世代の方々が多いですね。」

など、当時のことを話してくれた。

思いがけず、井上本人と日常接していた人に話を聞くことができたことに、ちょっとした感動を覚えた。
井上が亡くなったのはもう40年くらい前の事だから、80歳くらいの井上が当時20代か30代のご婦人に敬礼をしていたことになる。その光景を想像すると可笑しくもあるが、有り得そうなことだとも思った。

阿川本にある通り、土地建物は井上の海軍兵学校時代の教え子であった深田氏が所有するところとなり、氏の没後は息子夫婦が維持管理と、見学者の応対をしていたというが、家の事情で住みながらの管理を続けることが難しくなり、2、3年前からは都内に住んでいるという。その結果として、閉館状態が続いているということだった。本を読んで感動したからと、遠方から高齢の方が訪ねてくることもあるらしい。

「いずれはまた戻ってきたいということもおっしゃっていましたが、見学のお問い合わせがあると、その時間は外出もできませんし、個人で維持管理するのは大変だったと思います。」

ご婦人は「とても残念なことですけどね…」と繰り返していた。

「ここの坂から、天気がいい時は富士山が見えるんですよ。」
帰宅して阿川本を開くと、度々登場する「観明寺の坂」というのがこの道のことだった。



郷土史散歩『ふるさと横須賀』
歴史が眠る多磨霊園

井上成美 (新潮文庫)
阿川 弘之
新潮社
1992-07-29

米海軍厚木基地を見てきました

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抽選に当たりまして、米軍の厚木基地を見学して参りました。(基地のサイトの写真にいましたw)

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首都圏にある米軍基地といえば横田基地(空軍)、キャンプ座間(陸軍)も有名です。こちらは海軍の施設で、正式には米海軍厚木航空施設海上自衛隊厚木航空基地からなっており、滑走路は海上自衛隊が管制を行う、というような、日米共同運用の施設です。

米軍基地としての役割は米海軍第7艦隊の後方支援ということで、空母ジョージ・ワシントンの艦載機のメンテナンスなどなどを行っています。

面積は東京ディズニーランド10個分超。米海軍が3,000人、働く日本人が1,000人。そして海上自衛隊が2,000人超という、非常に大きなものです。「厚木」と名前がついていますが、実は厚木市に所在しているのではなく、大和、綾瀬、海老名の3市にまたがる格好です。

で、雨で写真はあまり撮れず。


さて、相鉄の駅から徒歩20分くらい(けっこうしんどい!)。
正門前の横断歩道を渡ると、歩道に「米国海軍管理区域」という文字。正門は和風でなかなかユニークなデザインなのですが、保安上の理由から撮影はNG。



海軍の青い迷彩を来た女性兵士にパスポートを見せ、中に入ります。
日本人たちによって建立されたマッカーサーの銅像が出迎えます。「日本の民主々義の父 マッカーサー」とありまして、早速、なかなか色々考えさせられます。桜が美しいですが、やっぱり雨w



A-4スカイホーク、F-4ファントムといった、往年の著名機が展示されています。



芝生の綺麗な競技場。ここで日本の高校生と、米軍の子息の人達とのラグビー親善試合も行なわれているとのこと。



フードコート。支払いはドルです。サブウェイやタコベル、フライドチキンやピザのお店ということで、カロリー高め。ドリンクはSサイズでも十分な大きさでした。米軍のひとに混じって、家族や子どもたちも食べにきてました。



壁掛けのTVではNBAが流れてました。



基地ではソフトバンクが主流のよう。窓口もありました。



マクドナルド。外では絶賛キャンペーン中の、てりたまシリーズの取り扱いはないらしい。



ガチャポン。あまりかわいくないw



チャリティーも盛ん。ちょうどいま、海軍では性的暴行やその被害についての啓発活動が行なわれており、こちらでも資料やグッズを配布していました。




海上自衛隊の施設としては「厚木エアターミナル」が。硫黄島をはじめ、那覇など、国内各地の自衛隊施設との定期便が出ており、一般の空港そっくりなカウンター、出発ロビーが。



HSM-77を見学


第5空母航空団第77海上攻撃ヘリコプター飛行隊"セイバーホーク"(HSM-77 Saberhawks)のハンガーを見学しました。司令官ウィットフィールド中佐、マスコットキャラ"ミスターホーク"の出迎えを受けました。

この部隊は、SH-60Bヘリを運用、最近ではフィリピン地震の災害派遣にも従事したとのこと。



パイロットたち。女性も複数。



出発前にはポップコーンを食べるのが部隊の伝統だそう。



司令官搭乗機。



空母ジョージ・ワシントンの艦載機であることを示している。



整備の真っ最中。



戦争の記憶


冒頭のマッカーサーでお気づきの方も多いとは思いますが、マッカーサーと聞いて誰もが思い出すであろう、パイプをくわえて滑走路に降り立つ写真。あの滑走路が、まさにこの厚木基地の前身、帝国海軍の厚木航空基地でありました。



そういえば、以前、第一生命ビルのマッカーサーの執務室を見たことがある。(ちなみに、"執務室から皇居を見下ろし…"的なイメージもあるかもしれないが、実はこの部屋の窓から皇居は見えない。)


さて、終戦直後には、徹底抗戦を主張する小園安名大佐率いる第三〇二海軍航空隊の武装解除を巡って緊迫に包まれた歴史もあります。先年、その旧海軍の司令部の建物も取り壊しとなり、敷地内に往時を偲ばせるものはあまり残っていないようで、たとえばこのトーチカ(のようなもの)、



あるいは、いまは教会として使用されている旧武道場、そのくらいのようです。



また、敷地内の工事の際には、終戦後破却された「月光」の部分などが出土したそうです。



マッカーサーが降り立った滑走路、現在では米軍のF/A18スーパーホーネットや海上自衛隊のP-3C、US-2、そしてYS-11(堀越二郎設計!)などが使用しています。(YS-11は、現在ここにいる機体も含め、すべてが今年度中に退役してしまうだろうとの説明でした。)





海上自衛隊の資料室には、「大空のサムライ」で有名な坂井三郎氏の揮毫がありました。2000年9月、坂井氏は厚木基地で行われた米軍のパーティに招待され、そこでこの書を認めたという。その帰りに体調不良を訴えられ、そのまま亡くなられたとのことで、坂井氏最後の揮毫と言われているものです。昨年末、米軍側から自衛隊に寄贈されました。



見学を終えて


着任する兵士は、まず日本の文化や伝統、マナーを知る研修からはじめるそうです。



我が国の米軍基地は、その大半が沖縄にあるということで、きょうも普天間のことがニュースになっていました。この厚木基地も、発足以来周辺地域も発展、騒音問題や、まさに正門をくぐってすぐにあったファントムが住宅街に墜落する、といった事故なども起きており(これについては昔絵本で読んだこともあった)、付近に住む人々にとっては深刻な問題があることも忘れてはなりません。

基地の外周を走るマラソン大会など、施設内では頻繁に米軍と自衛隊との交流が行なわれているようですし、基地の外とも、施設の一般開放以外にはお祭りやボランティア活動への参加、また近隣の小学校の英語の授業にアシスタントとして参加、5、6年生は基地に招き、先ほどのフードコートでこれまで習った英語を実際に使ってみよう、という試みも行なわれているそうです。逆に、基地内の子どもたちがそうした小学校を訪問することもあるようです。


何につけても、どう思うか、受け止め方は人それぞれでしょうが、想像で補えることには限界があるでしょうし、実際に自分で見て、歩いてみることで発見することも多く、その重要性をいつも感じています。"大人の社会科見学"もブームと言われて久しいです。まぁ、社会科見学と言っては語弊があるかもしれませんが、僕も可能な限り、いろいろな"現場"を見ようと常々思っていて、首都高の建設現場や浄水場、自衛隊など、いろいろ見させていただきました。

今回も、米軍と自衛隊の協業の"現場"を見ることによって、日々耳にする「日米同盟」といった単語を、なんというか、字面ではなく、より立体的で深みをもって体感できたように思います。

せっかくの桜の季節にもかかわらず、当日はひどい雨で、返す返すも残念。

首都圏外郭放水路調圧水槽、いわゆる

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土木系愛好家や特撮ファンにはお馴染みの、首都圏外郭放水路調圧水槽(春日部市)を見てきました。

首都圏外郭放水路とは何か。春日部市をほぼ東西に横切る国道16号線の直下に直径10.9メートルの横穴(シールドトンネル)を堀り、国道16線が河川と交差する場所に掘った立坑と連結、豪雨の際に河川から水を取り込んで江戸川に放流するという仕組みの地下水路であります。

今回見てきた、"神殿"で有名な「調圧水槽」は江戸川脇の地下に設置されていまして、溜まった水を貯めておいて放流するところにある施設になります。

見学は随時受け付けているのですが、本日は一般公開日ということで、最寄りである南桜井駅のシャトルバス乗り場には行列ができていました。ここからは徒歩30~40分とのことで、シャトルバスを選択せざるを得ません。ここに来るまでにすでに1時間半以上かかっていますが、あと少しの辛抱。



会場ではお祭りが開催されており、家族連れで賑わっていました。
調圧水槽はこの広場の真下にあります。



放水路に使用されたシールドマシンがモニュメント化。



コンクリ打ちっぱなしの無骨な階段を降りていきます。



到着です。そんなに深くはありません。降りたのはこのほぼこの天井から床面くらいだと思います。



本当に深いのは、立坑だと思いますが、今回は遠くから眺めるだけ。この立坑の底が国道16号下の横穴(放水路)につながっています。覗きこみたい!



この立坑から入ってきた水が、調圧水槽を通り、巨大ポンプによって汲み上げられ、江戸川へ放流されるわけです。

ポンプ部に至る水門。



今回はポンプに至る、プロペラも見学することが出来ました。こちらは普段の見学は見ることができないそうです。



このプロペラが4機あり、実際に稼働すると1秒あたり25mプール1杯分の水を吸い上げるそうです。

とにかく遠くて、並んで、疲れました。

国土交通省江戸川河川事務所 首都圏外郭放水路

人吉

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GMTに帰ったついでに、家族で人吉を旅行した。
熊本からは車で1時間半程度、肥薩線も通っているので、日帰りでも行ける土地である。そのためか、この向こう、鹿児島は旅行気分で何度も訪れているのだが、人吉については、実はじっくりと観光をしてみたことは無かった。

人吉藩は、隣の薩摩藩同様、鎌倉時代からの領地を明治に至るまでそのまま維持した、全国でも珍しい藩だ。派手さはないものの、ところどころに700年近い伝統を感じることが出来る。出身の著名人で言えば、川上哲治やウッチャンだろうか。戦時中、軍部の圧力にも屈しなかった吉岡文六、また海軍にあって終戦工作に奔走した高木惣吉などは、熊本県人として、県民にももっと知られて良い人達だと思う。

初日、九州は大雨で、球磨川の水も増水していたが、一夜明けるとスッキリと晴れ渡っていた。





町を東西に流れる球磨川には何本も橋がかかる。球磨川は日本三大急流の一つだから、球磨川下りも名物だ。舟を載せた車が走っていた。



球磨川を挟んで北側には旅館や飲食店街、人吉駅があり、南側には、人吉城址や旧武家地を利用した官公庁街が広がっている。



また、明治10年の西南戦争では、熊本から敗走し南下してきた薩軍が、官軍と戦闘を繰り広げたところでもある。八代から上陸してきた山川浩(八重の桜で出てますね)もまた、ここで戦った。



野戦病院になったという永国寺。幽霊の掛け軸が有名で、訪れた二日前には「ゆうれい祭り」が開催されていたという。

 西郷は、徒歩になっている。彦四郎たちの一隊の兵は人垣を作って人目から西郷を隔てるようにすて歩き、永国寺の素朴な山門の前を通り過ぎ、そのまま西へ歩いた。
 先頭には、人吉士族新宮嘉善という若い男が道案内に立っていた。

(…)

 新宮嘉善の屋敷は、永国寺からほど近い。
 かれは西郷に自分の屋敷を宿所として提供し、害意がないことを見せるため自分も家族も親戚に移った。



この屋敷は、今も公開されていて、維新後に人吉城から移築された門は、城そのものが破却された後も残る唯一のものだ。(右手奥に永国寺山門。)





屋敷の向かいには、古い銭湯、またこの銭湯を管理する繊月酒造の工場がある。
人吉の温泉の歴史は意外に浅く、大正期に掘ったら出た、ということで、旅館や銭湯が次々と建った。
しかし"掘りすぎ"のせいか、近年湧出量が減少しており、銭湯は時間を限って営業している。今回、このレトロ銭湯群に入るのがひとつの目当てだったが、いずれも時間が合わず断念。



人吉の焼酎は米焼酎で、とくに球磨川流域で、このあたりの水を利用したもの28の蔵のみが「球磨焼酎」ブランドを名乗ることが許されている。(全国区で言えば、白岳酒造の「しろ」などが有名だろうか。)僕も普段は芋焼酎ばかりを飲んでいるし、芋焼酎ブームに押されて、なかなか飲む機会が無い米焼酎・球磨焼酎だが、今回色々と試すことが出来て、良さを新発見した気がする。








さて、人吉と言えば、近年熊本県ではじめての国宝指定を受けた、青井阿蘇神社の建築物群(江戸初期)が有名だ。



 人吉の町でおどろいたのは、青井神社の桃山風の楼門だった。
 球磨川の北岸沿いの街路を歩いていると、川にのぞんで石段があり、登ってゆくと豪宕な楼門が立ちはだかっていた。

(…)

 この楼門を仰いで感動させられるのは、豊臣期という統一時代にはあるいは僻地というものが存在し
なかったのではないかということである。
「青井大明神」
という額を高くかかげたこの楼門は、京都あたりに残っている桃山風の建造物(西本願寺の唐門など)などよりもさらに桃山ぶりのエッセンスを感じさせる華やぎと豪宕さをもっているのである。人吉盆地という、外界との交通を遮断しているかのごとき地形が相良氏を永く守りに守ってきたように画一的な文化もこの地には入りにくいように主されるのだが、ところが桃山の芸術的気分や様式はこの天嶮を苦もなく廃止、むしろじかにこの地に入っていたことがこの青井神社の楼門を見てもわかる。



境内には、歴代の神官を務めた青井家の屋敷が開放されている。こういうのは珍しいと思う。一見の価値あり。



老神神社という、球磨川の南岸にひっそりと鎮まる神社がある。



老神神社の社殿も江戸初期のもので、桃山風の雰囲気が見て取れる。



話を明治に戻すと、西南戦争時、中洲にあったという社がここに移築されているのだが、丸い穴がところどころに開いている。球磨川を弾丸が飛び交ったことを示すものだ。




今回、熊本からは車でやってきたが、復活したSLが熊本ー人吉駅間を往復している。人気の列車で、予約がなかなかとれない。この日も夏休みということもあって、家族連れで満員だった。うちは発車を見送るだけ。




人吉を後にして、鹿児島へ向かう。今回の目的のひとつに「肥薩線に乗る」というのもあった(笑)

峻険な山間部を走る路線。長いトンネルやループ線、スイッチバック、たいそうな難工事だったというが、それでもあえて海沿いではなくここを通したのは、艦砲射撃があった場合のことを考慮して、という、明治後期ならではの状況があったからだという。

おかげで、今では鉄道好きの人には見所満載の路線になっていて、車両デザインに力を入れているJR九州もそれに答える形で、楽しい観光用列車「いさぶろう」「しんぺい」号(人吉ー吉松間)、「はやとの風」号(吉松ー鹿児島中央間)を走らせている。







途中で減速したり、一時停止しながら、見どころを車内アナウンスで教えてくれる。デザインは、JR九州のほとんどの列車を手がける水戸岡鋭治氏のものだ。



吉松駅で、「はやとの風」に乗り換える。



栗野駅のそばにある、湧水池。車窓からでもわかる透明度。



大隅横川駅。駅舎は明治36年からのもので、柱には太平洋戦争中の機銃掃射の弾痕が。





有名な嘉例川駅。こちらも明治36年からのもの。





霧島を抜けると、錦江湾沿いを走る。







鹿児島市が近づくと、車窓からは桜島が見えた。

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