山崎の戦いを歩く
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位置を確認しておきましょう。
大阪方面から、京都へ入るには、西国街道の宿場であるこの山崎を通らねばなりません。しかし北からは山、南からは川(しかも合流地点)に挟まれた、くびれた場所になっています。本能寺で信長を倒したものの、細川藤孝や筒井順慶からの協力を得られない中、西方からの秀吉軍のすばやい進撃に備えなければならなくなった明智光秀は、この土地で迎撃をすることにしたわけです。
京都駅からJR東海道本線で15分ほど、山崎駅に到着です。
駅前のコンビニはデイリーヤマザキです。山崎のヤマザキです。
駅前ロータリーの真ん前に、名高い「妙喜庵」があります。日本で最も駅近な国宝なんじゃないかと思われる「待庵」は1ヶ月前の予約制ということで、全く見ることはできません。
歩いた順番とは逆になりますが、ここからはせっかくなので秀吉軍の進路に沿って、西からご紹介していきます。
西国街道
西国街道はJR線と淀川に挟まれるかたちで走っている。新幹線も、阪神高速道路は、さらにその外側を走っているイメージだ。それらが発達しているから、旧街道沿いはとても静かです。
山崎駅から1.5キロほどのところにある、水無瀬神宮。
神門(桃山時代)。石川五右衛門の手形があるということだが、目を凝らしてもどれが手の形なのかわからなかった。
ここは、大阪府で唯一の名水百選ということで有名だ。サントリー山崎蒸溜所の仕込み水も、おそらくこれと同じ水質なんだろう。この日の気温は34℃。うまかった。
いい感じの、風情ある旧道がつづいています。
街道沿いの古そうな木。昔の旅人も目にしたことだろう。
サントリー山崎蒸溜所も見える。ここまで来ておいて、中に入らないというのも我ながら奇特だ。
実は山崎駅からすぐのところに国境がある。ここから東が山城国=京都府乙訓郡大山崎町。西が摂津国=大阪府三島郡島本町。だから、サントリー山崎蒸溜所は京都なイメージが強いが、住所は大阪府なのである。このあたりが国境。
国境にある関大明神社。本殿は室町時代ということだから、山崎の戦いに参加した兵士たちもあるいはこれを横目に戦場に向かったかもしれない。
離宮八幡宮。かつては、油の専売権を持っていて、境内には「本邦精油発祥地」「守護不入」といった石碑が並んでいた。斉藤道三もここで、という伝承もあったようだ。
山崎八幡宮は、社領こそわずかだが、油の専売権をもっていて、この八幡宮のゆるしがなければ、油を売ることも、原料の荏胡麻を産地から運んでくることもできない。
<中略>
いまは境内も縮小し、参詣者もほどんとなく、村の鎮守といったかっこうになってしまっている。司馬遼太郎「国盗り物語〈1〉」
天王山
さて、山崎駅を通り過ぎ、JR線をまたいで、背後に聳える天王山に登ります。
急坂を登り(すでにこの時点で息切れ、猛暑で汗みずくに)、後方から徐々に前進してきた秀吉も本陣を敷いたという宝積寺に。
もし光秀が、秀吉に倍するほどの兵力をもっていたとしたら、かれは、山崎の隘路口(天王山と淀川の間)を揉みにもんで出てこようとする秀吉軍を、この隘路口で撃滅できたであろう。隘路口で撃滅するには、光秀は天王山に大舞台を据えておくことが要訣だったし、秀吉のほうも、光秀にそうさせぬためにこの山を奪っておくことはむろん必要であった。
が、光秀の側は兵力不足だった。
司馬遼太郎「播磨灘物語(4)」
この裏から、登山道が伸びています。なかなか厳しい山道。竹やぶの向こうから、時折新幹線の走行音が聞こえてきます。
立ち止まるとすぐに蚊が寄ってくる。登ること30分ほど、ようやく視界が開け、秀吉が千成ひょうたんの旗印を掲げたという地点に。
…しかし読めない。この夏は見に来るひとも増えるだろうから、整備が待たれるw。
高速道路のあたりを流れる川を挟んで、手前右側から池田恒興、中川清秀、高山右近の軍勢、そして向こう側に斉藤利光。ここから左後方、山腹に黒田官兵衛が布陣したそうです。
秀吉は全軍に総攻撃をくだした。ことに淀川の川床を進む右翼部隊をつぎつぎと増加し、前進させた。かれらは砂地、浅瀬を蹴って進み、その前進が異常なほどに早かった。
<中略>
これに斎藤隊はおびえ、退却を開始した。
司馬遼太郎「新史太閤記 (下巻):
新選組も登った
天王山は、それから280年後、再び戦いの舞台になっています。
幕末、京都から追い落とされた長州藩が、復権を狙って挙兵した「禁門の変」です。結局は敗れた真木和泉や肥後藩士らが天王山に立てこもり、新選組に包囲され自刃しました。さらに登った場所に、真木ら十七名の墓が。
永倉新八の記録によれば「敵より声ヲカケ、我ハ長門宰相ノ臣牧和泉互ニ名乗ラレテ戦イイタサン、我モ徳川ノ旗官ノ者ニテ近藤勇ト申」と名乗り合ったあと、17名は小屋に火を放って自刃。「実ニ敵ナカラ討死感心ナリ」と述べています。
肥後藩士の墓。
酒解神社
頂上まであと少し、のところに、酒解神社があります。
こちらは奈良時代の創建。
この本殿は雷で一度燃えており、1820年の再建。
このフェンスに囲まれた神輿庫は、板倉造という様式では国内最古で、国の重要文化財。釘を使っていないらしい。改修をしながらも現在まで同じ建物。
掃除をしていた爺さんが、「せっかく来たんやから」と説明をしてくれた。
近づいてみると、四方はすべて分厚い一枚板を組み合わせて建てられている。なるほど、これはすごい。
「見てみぃ、壁や柱にところどころ古い木材があるやろ。これが奈良時代に建てられた時のものと言われてんねん。京大の先生たちが来て、炭素年代で調べとった。」
「ということは、これは秀吉が戦ったときもここにあったということですね」
「まあ、そういうことやなw」
境内には、水がひっきりなしに音を立てて流れていた。井戸があるんですかと尋ねると、この真下を通っている阪神高速道路のトンネルから染み出してくる地下水を汲み上げているということだった。
西国街道、時折音が聞こえてくる新幹線、地下の阪神高速道路。今も昔も交通の要衝である。
帰宅してサントリーのCMどんなだったかなと思ってみたら、写真に撮ったところが結構出ててました。
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次回、勝竜寺跡を歩く。