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カテゴリ:journey(Paris,Brussel)

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僕がフランス行きを決意したのには、幾つかの理由がある。
もともと美術が得意ではないクセに(図工はとくに)、
印象派の絵画には妙に惹かれるところがあって、
中学校の頃に模写の課題があったときもClaude Monetの「睡蓮」を選んだ。
(「睡蓮」といっても何十枚もあるわけで、その中のどれだったか、
 ということについては、今となってはわからない。)

絵画についての僕の印象派好きは、東京に出てきて一層はっきりすることになる。
なにしろ、千葉の佐倉にある、河村記念美術館というところでモネ展が催されると聞くや、
学校をサボって、片道3時間の道のりをものともせず、見物に行ったのだから。

他にも理由がある。
これは大学に入ってからのことなのだが、いろいろ読書をしていくうちに、
フーコーだったり、ブルデューだったりと言った、20世紀フランスの思想家たちに興味を持っていた。
そして彼ら世界に名だたる秀才・天才を産み出した、フランスの超エリート教育や、
そのシステムを支える階級社会にも興味を持っっていった。
(実際僕は旅行の途中、一学年が十数人ながら、毎年のように世界的に有名な学者を輩出している、
フランスのトップの学校、「エコール・ノルマル・シュペリウール」を見に行ったりしている。)

そして最大の理由は、エリック・サティという音楽家だろう。
多分高校のはじめごろだったか、サティのCDを買った。
もちろんこの人の音楽が好きだということもあるし、
もともとピアノについては全く教育を受けていない僕だが、
ポップスの他に、クラシックでも割と簡単に弾ける曲があるんだと、
まあそういう感じで出会ったんだと思う。
入門編ともいうべきそのCDには、やはり名曲が揃っていた。
今まで聞いて来た他のクラシックのどれとも違う、
ましてや学校の音楽の授業では習わないような、
純粋な音ながら実に滑稽で謎に満ちている音楽にすっかりハマってしまったわけだ。

彼の名前や音楽を知らなくても、僕の知る限り、
常になんらかのCMで彼の音楽が使われていますが、
軽くその人となりについて触れておく。

1866年、日本で言う所の幕末にフランスのノルマンディー地方で生まれた彼は、
母親がイギリス系だったということもあり、実は英語も喋れたという。
しかし彼は人前で英語を話すことを終生ほとんどしなかったらしい。
唯一友人だった写真家がそう回想しているだけである。

このサイトでみることのできるいくつかの写真の通り、
30代を過ぎてからは黒い山高帽と黒いコート、晴れの日でも手には傘といういでたちで、
パリ郊外のアルクイユ村から毎日パリまでてくてく歩いて通っていたと言う。

終生家庭を持つこともなく極貧の中の生活だったらしいが、
近所の子どもに音楽を教えることもあった彼は、
自ら最低限の暮しをもとめ、肝硬変によって59歳で亡くなるまで、
同時代のドビュッシーなどとも微妙な距離を保ちつつ、
アカデミズムに対して皮肉な言動を続けた反骨の作曲家でした。

彼の死後、アパートで見つかったのは、
楽譜や手紙に記す為の独特なロゴ、そして断片的なイメージや言葉を記したカードが数百枚、
(これは2000年に新宿でやってた展覧会を見に行った。)
そしておびただしい量の傘だったという。

彼の曲のタイトルは極めて奇怪だ。例えば、
「天国の英雄的な門への前奏曲」、「(犬のための)だらだらとした真の前奏曲」、
「乾燥胎児」、
「木でできた太っちょ人形のクロッキーと誘惑的なからかい」、
「気難しい気取り屋の3つの上品なワルツ」
と言った具合で、不気味で奇妙なタイトルについては枚挙に暇がない。

タイトルを見る限り、どれだけおどろおどろしい、不協和音に満ちた曲なのだろう、
と想像していがちだが、
音楽は至って透明で繊細、シンプルで美しいものばかりなのである。

ともかくこういうエキセントリックな音楽家だっただけに、
存命中は華やかな世界からは相手にされることはほとんどなく、
まだ20代だったパブロ・ピカソやジャン・コクトーなど、
ごく少数(なおかつその後頭角を現してくる)の新進芸術家達と、
細々と活動しながら、カフェでピアノを弾いて生計を立てていたようです。

つまり彼は生涯に渡って、
そして現代においても音楽だけはみんなどこかできいたことあるくせに、
ほとんどの人が彼については知らない、という点において、
非常に孤独な人だったと言えるでしょう。

ともかく、僕はその音楽と生き方に大変興味を覚えて、
もしもフランスへ行くことがあったなら、
彼の足跡を辿ってみたい、そう思っていたのでした。
そしてパリ旅行に行った際、彼にまつわる幾つか場所を訪ねてきました。

一つは、彼が20歳前後のころ、モンマルトルで生活していた時に住んでいたアパート。
これは現存しています。


そしてパリ郊外、アルクイユ村のアパート。

これを探すのが相当大変でした。
日本で下調べをしたとき、何人かの人が自分のサイトでアルクイユを訪ねたということを書いていましたが、
どれも苦労した、ということが書いてあって、
ほんとに辿り付けるのかよ、と思った。
(当時はgoogle Mapも、wikipediaもなかったのだ。)

結局「アルクイユ」という地名しかつかめぬまま日本を立ったわけでして、
RER-B線「アルクイユ-カシャン」駅で降りてから、多分2時間くらいは歩き回ったと思います。

アルクイユ村は、ローマ時代から続く水道橋が通る、実に素敵な街でした。

確か、映画「アメリ」でも、この写真とほとんど同じアングルから見た映像があった気がします。

地元の人に訪ねても、英語を解する人も少ない上に、
「どのサティだ?」などどいうあたり、
やっぱり本国フランスでもそこまでの知名度はないのだろうか。。。
(僕の片言の仏語が良くないのだろうが。)

そして諦めかけた頃、八百屋のオヤジに訪ねると、
近くを歩いていた若者を呼び止めて、連れてってやれ、みたいなことを言いました(多分ね)。
彼は英語ができる人で、いぶかしげに僕を見ながらも連れていってくれました。
多分、この東洋人はこんなところまで来てなんなんだ、と思っていたことでしょう。
自分でもそう思います。

その家、実は駅からほど近い所にあり、僕は遠回りしていただけでした。
それでも案内板などないわけで、仕方のないことではありますが。

そのアパートもまた、100年以上前の様子を保ったまま、そこに立っていました。


入り口にはサティが住んでいたことを示す旨のプレートが貼ってありました。

(ヨーロッパに行って驚いたのは、100年前の建物など珍しくなく、
有名人が住んでいたことのある建物だと、必ず入り口になんらかの表示があるものなのです。
木造文化が近年まで続いた日本では考えられないことである。)

モンマルトルの場合もそうですが、周囲の景色が、
サティが歩いていた頃とほとんど変わっていないことを思うと、妙に感動。

そしてその後、さらに歩き回って、ついにサティの墓を発見した。
かなり広い村の墓地ではありましたが、勘をたよりに探しました。
(どこかで見た写真の記憶では、後ろは壁だったので、四方をさがせば良かったのです)
というわけで、墓を撮るのは違法だそうですが、悪意はないので見つかっても許してもらえるだろうと思い、記念撮影。


生前の彼は、日本からわざわざここまでやってくる人間がまさかでてくると、想像していたでしょうか。

かくして僕のちょっと変わった旅行の目的の一つは達成されたわけでありますが、
ここまで来た日本人も、多分にそうはいないでしょう。

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