天正10年6月13日、雨中の山崎の戦いは2時間ほどで大勢が決し、明智光秀は北東方面の勝竜寺城に退きます。



勝竜寺城は、JRで言えば山崎駅からひと駅、長岡京駅から徒歩10分ほどのところにあります。城跡までの道は、「ガラシャ通り」と名付けられています。



城は公園として整備されているエリアの、さらに周りにも拡がっていたようです。



もともと細川家の城として築城されました。細川藤孝の息子、細川忠興に嫁いだ玉、のちのガラシャが新婚時代を過ごした場所です。そういうことで瓦も九曜紋です。



公園内は、管理の方以外誰もいませんでしたw。休憩室・資料室ももちろん一人占め。



うん、明智光秀=細川藤孝を軸にした大河、見てみたい。



天王山方面を眺める。ここから見える山腹には、黒田官兵衛の軍勢がいたと思われます。



御坊塚からわずかに北方の勝竜寺城にもどったときは、戸外の者七百人が従っていたにすぎず、在城の者をあわせても千人を少し出た程度の少人数になっていた。
勝竜寺城は戦場における野戦用の上類で、これを恃んで籠城できるような要害ではない。光秀は夜になれば城を抜けだして近江坂本へ奔るつもりであった。
司馬遼太郎「播磨灘物語(4)


明智光秀はこの北門から、夜影に紛れて城を抜けだしたと伝えられています。実の娘が華やかな新婚時代を送った城を、敗残の将として跡にした光秀の心境はどんなものだったでしょう。



さて、勝竜寺城と長岡京駅のちょうど中間地点に、神足地区があります。住んでいる人達の表札にも神足とあれば、神社の名前も神足ということで、歴史を感じさせる集落ですが、ここにもうひとつ、勝竜寺城の遺構があります。

ガラシャ通りと交差するかたちで現れる藪。



神足神社の境内にあるこの土塁が、かつての勝竜寺の北限だったそうです。



ちょうど発掘調査が行われていました。



わずかな配下とともに、この土塁を乗り越え、北東へと逃れた光秀は、まもなく伏見の小栗栖で命を落とすことになります。