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ソレイユの丘


一度は雨の予報だったので家で過ごすつもりでいたが、朝になると横須賀方面は晴れの予報に変わっていた。雨が残る都内を8時に出て、横須賀へ向かった。



横須賀市が運営しており、入場は無料。
ただし、駐車場1,000円、場内のゴーカート600円など、それぞれお金はかかります。レストランも、しらす丼や海軍カレーなど、ご当地グルメを出すお店、バーベキューなんかもありますが、観光地価格でした。
しかし持ち込みは可なので、テントを持ってきて弁当を広げる家族もちらほら。



場内は広く、花畑や野菜の農園、ハーブ園や厩舎などが点在し、とても気持ちいい。遊具だけでなく、水遊びができる池も何ヶ所もあり、これからの季節、家族連れには最高だと思います。露天風呂からは海が見える温泉(ただし天然に非ず)もあります。これは家の近くにほしいです。



ちょうどIZAM夫妻がロケをしておりました。間近で見る吉岡美穂は確かに綺麗で、なぜにIZAM氏と…?という思いを今更ながら強くいたしました。

すぐ近くには漁港がありまして、地元の人がやってるっぽい物産店では各種しらすと地ダコが売ってました。おみやげに買って帰りました。同じものが周辺のスーパーで売ってますが、いくらか価格に乗ってますので、ここで買うのがオススメです。



長井海の手公園 ソレイユの丘
海と夕日の湯
かねしち丸直売所

井上成美旧邸


ここからは関心のある方のみ。井上成美という人を知っていますか?

戦前は徹底して開戦に反対し、戦中は海軍兵学校長として英語教育継続を強行、昭和19年には海軍次官となり、終戦の準備を始めるも大将進級と同時に退官。以後は密かに終戦工作に尽力。終戦後は、20代で未亡人となった一人娘と孫と隠棲。娘は29歳の若さで死去。のち、親類に引き取られるまで1人で孫を育てる。教え子や関係者が援助を申し出るもそれらを頑なに拒んだ結果、生活は困窮を極めていたという。
(一緒に終戦工作をしていた高木惣吉の記念館は出身地の熊本人吉にありますが、昨夏訪れた際は休館日で見学できず!)

その傍ら、近傍の子どもたちを集め、英語や音楽を教え続けた。こちらも、謝礼などは頑として受け付けなかったという。

何年か前、阿川弘之の"海軍提督三部作"、すなわち「山本五十六」「米内光政」「井上成美」(刊行順)を立て続けに読んだ。僕はその中でも「井上成美」をいちばん面白く読んだ。二人に比べて知名度では明らかに劣るが。仕事も家庭も、とにかく頑固一徹、ダメなものはダメ、というのが度外れていた人である。
どう考えても、同僚や上司にいたらちょっと困る。一緒に仕事をするなら山本・米内であって、井上のようなタイプの人間は、真っ先に嫌われて、孤独になってしまうはずだ。家族とてたまったものでは無かったはずだ。

けれども彼のその頑固一徹さが後世に遺したものー、つまり井上が守りぬいた教養教育で育ち、戦後日本を支えることになる数千人の教え子たち、また終戦への功績を思うとき、なんとも不思議な読後感に襲われる。

阿川さん自身が海軍士官だったこともあるし、いわゆる陸軍悪玉論(=海軍善玉論)的な観点から、敢えて書いていないこともあるのかもしれないけれど、その点を割り引いても尚、井上の生き様は胸に迫るものがある。社会生活を送る者として、"正しさ"とはなにか、考えさせられない人は居ないはずだ。
そういう意味で、僕はこの人の生涯に感銘を受け、読後も気になる存在だった。

この井上が戦前に建て、戦後から1975年に亡くなるまで住んでいたのが、横須賀市長井の自邸だ。記念館になっているということ、また、現在は閉館しているということを知っていたので、すぐ近くにある「ソレイユの丘」に行くついでに、見に行ってみた。

「ソレイユの丘」から眺める井上邸方面。



たまたま入った路次に観明寺というお寺があった。そこから伸びる坂道を登っていく。



切り通しや未舗装の道を登る。畑が広がるのどかなところだ。



記念館の周囲は草むしており、ネットで見たとおり、閉館している。





亡くなる日の夕方、庭から海をずっと眺めていたという、その景色がこれだ。



これだけでも満足と思い、来た道を戻っていると、近くの家のご婦人が門から出てきたところに出くわした。会釈を交わして行き過ぎたが、もしかして何か事情を知っているかもしれないと思い、振り返って
「あの、あそこはずっとしまったきりですか?」
と尋ねると、
「そうなんです。とても残念ですが…。
 ただ原稿か何かと、愛用の鞄くらいしか、展示されているものはないようですけれど。
 何か本をお読みになっていらしたんですか?もしかして阿川さんの本ですか?そうですか。亡くなった義理の父に取材をしに、阿川さんがいらしたこともあります。本の中で父の名前が何度か出てきますよ。」

「大将は、それは頑固な感じというか、どう接したらいいのかわからないような雰囲気の方で、いつもここを歩いて買い物などに行かれていました。」
と、立っている地面を指さした。

「えっ、ご存知なんですか?」
「挨拶をすると、こう敬礼を…。」
「皆さんがですか?」
「いえ、大将が、私たちに対してするんです。ビシッと、いつまでも。」
「えーっ!?」

「奥様は…後妻さんだったということですが、いつも着物を着て、髪もきちんと結って、時にはうちに寄ってお茶を飲んでいかれました。私は帯を頂いたこともあります。私の父も海軍で、大将ではなく中将だったのですが、私がここに嫁いで来た後、一度大将をお伺いしたことがあって。父は大変喜んでいました。なんなら君たち夫妻が井上家を継いでくれよって言われたりもしましたが…」

「この辺りの方に英語を教えていたということですが。」
「私ももう70歳になりますが、この下の観明寺の住職さんのお父さんなど、教わっていたのはもう少し上の世代の方々が多いですね。」

など、当時のことを話してくれた。

思いがけず、井上本人と日常接していた人に話を聞くことができたことに、ちょっとした感動を覚えた。
井上が亡くなったのはもう40年くらい前の事だから、80歳くらいの井上が当時20代か30代のご婦人に敬礼をしていたことになる。その光景を想像すると可笑しくもあるが、有り得そうなことだとも思った。

阿川本にある通り、土地建物は井上の海軍兵学校時代の教え子であった深田氏が所有するところとなり、氏の没後は息子夫婦が維持管理と、見学者の応対をしていたというが、家の事情で住みながらの管理を続けることが難しくなり、2、3年前からは都内に住んでいるという。その結果として、閉館状態が続いているということだった。本を読んで感動したからと、遠方から高齢の方が訪ねてくることもあるらしい。

「いずれはまた戻ってきたいということもおっしゃっていましたが、見学のお問い合わせがあると、その時間は外出もできませんし、個人で維持管理するのは大変だったと思います。」

ご婦人は「とても残念なことですけどね…」と繰り返していた。

「ここの坂から、天気がいい時は富士山が見えるんですよ。」
帰宅して阿川本を開くと、度々登場する「観明寺の坂」というのがこの道のことだった。



郷土史散歩『ふるさと横須賀』
歴史が眠る多磨霊園

井上成美 (新潮文庫)
阿川 弘之
新潮社
1992-07-29