学生時代のアルバイトと言えば、短期間のも色々やったけれど、メインは1年生の秋から卒業するまで続けた、西新宿のドトールだった。
一緒に働いていたひとたちとは、最近でこそお互い家庭を持ったり仕事が忙しかったりして疎遠にはなってきているはが、みんな1学年か2学年しかちがわなかったから、卒業してからもよく飲みに行ったりもしていたし、バイト仲間にしては、まあかなり仲のいい方だと思う。

当時美大に通っていたTさんはその中でも年上格のひとで、僕にとってはMacのことやら写真のことやら話をしてくれるいい兄貴分だった。さらに住まいも同じ阿佐ヶ谷(しかも春日と同じアパート!)だったから、道端ですれ違ったことも何度かあった。

先週、僕にとっては同じく兄貴分である、Oさんからメールが来た。そのTさんが昨年倒れて、中野の警察病院でリハビリ中だと言う事だった。
土曜日、Oさんと駅前で待ち合わせて、二人でお見舞いに行った。

病室を除いたが姿が見えなかったので、ナースステーションで尋ねると、
「ラウンジじゃないですか」
と言われた。

ニット帽をかぶったTさんはラウンジで、こちらに背を向けて本を読んでいた。
南に面した窓の向こうには中央線が走るのが見え、左の方に目を向けると、中野サンプラザの向こうに我々が働いたドトールのある西新宿の高層ビル群が見えた。
我々が来たのに気がつくと、Tさんは本を閉じて、
「おぉ」
とにこやかに迎えてくれた。
「いやぁ〜大変だったよ〜来週抜糸なんだ」
と苦笑いして帽子を取ると、左側頭部に手術の痕があった。

去年の6月、アパートに友達が遊びにきている時に突然倒れ、目が覚めたら4日が過ぎていて、声が出るまでにはさらに2ヶ月かかったと教えてくれた。
「友達がいなかったら、間違いなく死んでたよ」
と笑いながらこれまでの経緯を説明してくれたが、その言葉はたどただしい。
僕たちの言葉はもちろん全てわかっていて、頭の中に返答のための文章があるのだが、うまくそれが声に出せないようだった。
どんな質問にも笑顔で教えてくれるだけ、聞いている方としてはどう反応していいかわからなかった。一緒に笑ったが、向こうもこっちも、辛いのを隠している笑いだったろう。

まだ31歳だ。リハビリも続けているが、右足と右手も思うように動かないのだ。まだまだやりたいことも山ほどあるだろうし、なぜ自分だけがこんな目に、とも思うだろう。
僕たちが元気な姿を見せることだって、Tさんにとっては本当は辛いことなのかもしれない。

「3月末には、厚木の病院に転院するんだ」
とも言った。
ますます会うのは難しくなるだろう。最後に頑張って、お元気で、と左手に握手をして別れたが、こんなときにはどういう言葉をかけたらいいのか、本当にわからなかった。

うちには、僕とOさんとTさんが3人並んで酔っ払っている写真があるのだが、できればまたこういうふうに飲みに行ける日が来ることを願うばかりです。