学士会館ビアホール

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夏季のみ行われている、学士会館のビアホールへ行って参りました。

1928年(昭和3年)建築の建物。名前の通り、昔は七帝大のOBしか使えなかったんでしょうかね。"學士會館"と、旧字体で書きたい空気感。二・二六事件のときには、宇都宮の第14師団がここに入って、司令部として使ったそうでございます。







帰宅して調べてたら、この部屋は「半沢直樹」の東京中央銀行本店、役員会議のシーンで使われている部屋だそう。
東京中央銀行本店の外観シーンは、日本橋の旧三井本館ですよね。



このビアホールは、8月いっぱいまで!

大橋ジャンクション見学(中央環状品川線)

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夏休み最後の日曜日、僕も社会科見学をしてきました。
やってきたのは大橋ジャンクション。抽選の競争率は5倍以上だったそうです。
前回見学したのは2009年の8月23日、ちょうど4年前でした。

大橋ジャンクション見学 - 前回の見学記。
写真一覧

その後大橋ジャンクションは供用が開始され、山手通の地下35mを通る中央環状線山手トンネルの池袋・新宿方面と玉川通りの上35mを通る3号線の上下線、高低差70mが接続されたわけですが、品川から掘り進んで来た山手トンネルもついに大橋ジャンクションまで到達(新宿方面とあわせて世界2位の長さ!)かねてより計画中だった大橋ジャンクションとの接続も来年には開始される見通しです。

すでに今の時点で内部の構造が頭の中でうまく整理できてないんですが、さらに複雑になるわけですw
目黒川沿いの入り口から入る。





内側にはフットサルコート!4年前はこんな感じでした↓



見覚えのある模型!



4年前に見た、これ?



今回見学する工区。Y字のトンネルが2本重なっている部分です。



このピンクの部分になります。



玉川通りにある入口から、地下の工事区域へと降りていきます。



トンネルは、要するにinとoutで上下2本あって、見学する下のトンネルまで降りる。





ここから先がシールド工法で掘られたトンネル部分だ。勾配は7%とのこと。





ここで、品川から走ってきた車が、大橋ジャンクションへ(歩いてきたトンネル)と、そのまま山手トンネル新宿方面へ直進するトンネルに分岐します。まさに工事中!という感じで、一同ボルテージが高まります。



分岐の接続部分は、2本のトンネルを地中で1本にするという世界初の工法を採用、2本の上下にカベを作り、土砂を掻きだし、のちにそれぞれの外側を撤去して一本のトンネルにします。
その現場を見に、シールドトンネルの上へ。



この地点は、ドン・キホーテ中目黒本店のちょうど真下あたりだそうです。



なかなか想像が付かないのですが、この上にもう一本、同様に2本のシールドトンネルが走っていて、同じく分岐の部分の工事を行なっているそうです。この上下の2本☓2セットの隙間はわずか1〜1.5m程度だそうです(その上には目黒川も流れてる)。また、並行に行き違うシールドトンネルの距離は一番狭いところで50cm程度だそうです。

このあたりの地盤が非常に固く安定していることが、これだけ密度高く4本もトンネルが掘れる理由だそうですが、シールドマシンの上下左右を繊細にコントロールする技術には驚かざるを得ません。

ジャンクション方向に引き返して、今度は合流する地点を見学。ちょうどこの赤いエリアです。



カベの向こうは、もうジャンクションの構造物の中。車が走る音が聞こえます。トンネルが完成した暁には、このカベが取り払われて、合流地点となります。



工事域の先端部分、シャッターを開けると…車が走ってます。



いや〜、いいもの見せてもらいました!!!
それにしても、私の業界では、5年、10年というような長期プロジェクトなんてのはほぼありえないので、なかなか興味深いですね。

中央環状品川線 - 東京SMOOTH
首都高中央環状品川線、最先端のトンネル技術が競演(土木のチカラ2012) - 日経BP社 ケンプラッツ

人吉

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GMTに帰ったついでに、家族で人吉を旅行した。
熊本からは車で1時間半程度、肥薩線も通っているので、日帰りでも行ける土地である。そのためか、この向こう、鹿児島は旅行気分で何度も訪れているのだが、人吉については、実はじっくりと観光をしてみたことは無かった。

人吉藩は、隣の薩摩藩同様、鎌倉時代からの領地を明治に至るまでそのまま維持した、全国でも珍しい藩だ。派手さはないものの、ところどころに700年近い伝統を感じることが出来る。出身の著名人で言えば、川上哲治やウッチャンだろうか。戦時中、軍部の圧力にも屈しなかった吉岡文六、また海軍にあって終戦工作に奔走した高木惣吉などは、熊本県人として、県民にももっと知られて良い人達だと思う。

初日、九州は大雨で、球磨川の水も増水していたが、一夜明けるとスッキリと晴れ渡っていた。





町を東西に流れる球磨川には何本も橋がかかる。球磨川は日本三大急流の一つだから、球磨川下りも名物だ。舟を載せた車が走っていた。



球磨川を挟んで北側には旅館や飲食店街、人吉駅があり、南側には、人吉城址や旧武家地を利用した官公庁街が広がっている。



また、明治10年の西南戦争では、熊本から敗走し南下してきた薩軍が、官軍と戦闘を繰り広げたところでもある。八代から上陸してきた山川浩(八重の桜で出てますね)もまた、ここで戦った。



野戦病院になったという永国寺。幽霊の掛け軸が有名で、訪れた二日前には「ゆうれい祭り」が開催されていたという。

 西郷は、徒歩になっている。彦四郎たちの一隊の兵は人垣を作って人目から西郷を隔てるようにすて歩き、永国寺の素朴な山門の前を通り過ぎ、そのまま西へ歩いた。
 先頭には、人吉士族新宮嘉善という若い男が道案内に立っていた。

(…)

 新宮嘉善の屋敷は、永国寺からほど近い。
 かれは西郷に自分の屋敷を宿所として提供し、害意がないことを見せるため自分も家族も親戚に移った。



この屋敷は、今も公開されていて、維新後に人吉城から移築された門は、城そのものが破却された後も残る唯一のものだ。(右手奥に永国寺山門。)





屋敷の向かいには、古い銭湯、またこの銭湯を管理する繊月酒造の工場がある。
人吉の温泉の歴史は意外に浅く、大正期に掘ったら出た、ということで、旅館や銭湯が次々と建った。
しかし"掘りすぎ"のせいか、近年湧出量が減少しており、銭湯は時間を限って営業している。今回、このレトロ銭湯群に入るのがひとつの目当てだったが、いずれも時間が合わず断念。



人吉の焼酎は米焼酎で、とくに球磨川流域で、このあたりの水を利用したもの28の蔵のみが「球磨焼酎」ブランドを名乗ることが許されている。(全国区で言えば、白岳酒造の「しろ」などが有名だろうか。)僕も普段は芋焼酎ばかりを飲んでいるし、芋焼酎ブームに押されて、なかなか飲む機会が無い米焼酎・球磨焼酎だが、今回色々と試すことが出来て、良さを新発見した気がする。








さて、人吉と言えば、近年熊本県ではじめての国宝指定を受けた、青井阿蘇神社の建築物群(江戸初期)が有名だ。



 人吉の町でおどろいたのは、青井神社の桃山風の楼門だった。
 球磨川の北岸沿いの街路を歩いていると、川にのぞんで石段があり、登ってゆくと豪宕な楼門が立ちはだかっていた。

(…)

 この楼門を仰いで感動させられるのは、豊臣期という統一時代にはあるいは僻地というものが存在し
なかったのではないかということである。
「青井大明神」
という額を高くかかげたこの楼門は、京都あたりに残っている桃山風の建造物(西本願寺の唐門など)などよりもさらに桃山ぶりのエッセンスを感じさせる華やぎと豪宕さをもっているのである。人吉盆地という、外界との交通を遮断しているかのごとき地形が相良氏を永く守りに守ってきたように画一的な文化もこの地には入りにくいように主されるのだが、ところが桃山の芸術的気分や様式はこの天嶮を苦もなく廃止、むしろじかにこの地に入っていたことがこの青井神社の楼門を見てもわかる。



境内には、歴代の神官を務めた青井家の屋敷が開放されている。こういうのは珍しいと思う。一見の価値あり。



老神神社という、球磨川の南岸にひっそりと鎮まる神社がある。



老神神社の社殿も江戸初期のもので、桃山風の雰囲気が見て取れる。



話を明治に戻すと、西南戦争時、中洲にあったという社がここに移築されているのだが、丸い穴がところどころに開いている。球磨川を弾丸が飛び交ったことを示すものだ。




今回、熊本からは車でやってきたが、復活したSLが熊本ー人吉駅間を往復している。人気の列車で、予約がなかなかとれない。この日も夏休みということもあって、家族連れで満員だった。うちは発車を見送るだけ。




人吉を後にして、鹿児島へ向かう。今回の目的のひとつに「肥薩線に乗る」というのもあった(笑)

峻険な山間部を走る路線。長いトンネルやループ線、スイッチバック、たいそうな難工事だったというが、それでもあえて海沿いではなくここを通したのは、艦砲射撃があった場合のことを考慮して、という、明治後期ならではの状況があったからだという。

おかげで、今では鉄道好きの人には見所満載の路線になっていて、車両デザインに力を入れているJR九州もそれに答える形で、楽しい観光用列車「いさぶろう」「しんぺい」号(人吉ー吉松間)、「はやとの風」号(吉松ー鹿児島中央間)を走らせている。







途中で減速したり、一時停止しながら、見どころを車内アナウンスで教えてくれる。デザインは、JR九州のほとんどの列車を手がける水戸岡鋭治氏のものだ。



吉松駅で、「はやとの風」に乗り換える。



栗野駅のそばにある、湧水池。車窓からでもわかる透明度。



大隅横川駅。駅舎は明治36年からのもので、柱には太平洋戦争中の機銃掃射の弾痕が。





有名な嘉例川駅。こちらも明治36年からのもの。





霧島を抜けると、錦江湾沿いを走る。







鹿児島市が近づくと、車窓からは桜島が見えた。

東急百貨店東横店東館ちびっ子プレイランド

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渋谷の東急百貨店は、東館、西館、南館と3つの建物が連結されている。建物の中にいると、そこまで古さを感じさせないのだが、東館が一番古く、1934年の竣工である。しかも、暗渠化された渋谷川の直上に建っているということで、実は日本で唯一の、川の上のデパート、らしい。今となっては跡形もないので想像もつかないが、戦後の一時期、この東館と西館の間にロープウェイが渡されていたこともあるという。

ヒカリエにあるオフィスの座席からちょうど下に見えるのが、この東館の屋上だ。いかにもデパートの屋上という雰囲気である。




渋谷の再開発の流れの中、15日の、東横線のホームの切り替えに続き、東館が3月末で閉館する。2020年には新しいビルが、そして2027年には、他の建物とあわせ、再開発が完了の予定らしい。


その前に、この屋上を見ておきたいと思って、家族で遊びに行ってみた。

屋上へは、8階から階段で上がる。「R階」という表示が、レトロさを醸し出している。




ピンク色のゲートは、何かの跡だろうか。




ヒカリエを見上げると、こういう格好になる。




この手作り感が温かくもあり、寂しい。







鉄道、ゴーカート、船(ちゃんと水の上をゆく!)など、ここまでバラエティ豊かに遊具がある屋上遊園地は、もう都内にはあまりないのではないか。




北東側の角には、「東横稲荷」なる神社が。しかし、お宮はすでに取り外されていた。




土曜日の昼間だというのに、人気もあまりなく、遊具たちの音楽や、「一緒に遊ぼう!」的な声だけが聞こえてくる、あまりにも切ない!こういうの弱い(笑)



閉館後、この遊具たちはどこへ行くのだろうか…。

乃木坂



100歳以上の高齢者は昨年に比べ3000人以上増え、過去最多の5万人を突破した、というニュースが敬老の日にあわせて流れていた。

今年は元号が明治から大正に切り替わって100年ということで、つまり100年前というと、明治45年、もしくは大正元年であり、明治という時代はもう随分と遠い歴史の中の時代になってしまったようにも思われるが、その時代に生まれた人が5万人近くも居ると思うと、案外そうでもなく、まだまだ"生乾き"といっていいように思われる。(僕の明治43年生まれの曾祖母も存命している。)

そんな節目にあわせて、都内ではひっそりとw、催しが。

乃木神社では、大掛かりな記念祭が開かれている。






乃木といえば、明治帝の葬儀のあと、9月に"殉死"した人だから、彼もまた没後100周年ということになる。境内には、自刃の際に夫妻が着用していた服などが展示されていた。



例年、命日にあわせて乃木邸の内部も公開されているようだが、震災の影響とかで、邸内に入ることはできなかった。

 

乃木坂といえば今時は乃木邸や乃木神社ではなく、46のことだろう。
境内のあちこちで、乃木坂46のメンバーがARで云われを説明してくれる企画を実施中だった。



残念ながらAndroidのみということで、iPhoneユーザの僕は見ることがかなわず。

一方、明治神宮では、明治天皇百年祭・乃木神社御祭神百年祭記念展「明治天皇と乃木大将」と題した特集展示が開かれている。

先に紹介した、自刃の際の刀など、乃木神社からの出品もあり。宮内庁書陵部所蔵の、「爾靈山嶮豈難攀〜」の漢詩が書き付けられた手帳は驚いた。

これは宝物殿。




明治神宮には、おみくじが無い。「大御心」という、明治帝の和歌数十種が書き付けてあるものがそれにあたる。




あらし吹く世にも動くな人ごころ   
      いはほに根ざす松のごとくに


「たとえ、どのように嵐が吹きすさぶ、はげしい世の中の変動に会っても、あの巌の上に、どっしりと根を張っている松の大木のようにしっかりとした信念を持って、心を動揺させてはなりません。」

これは実に考えさせられる。w

あえて東京タワー

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そんなわけで、スカイツリーが盛り上がっている今だからこそ、あえて東京タワーに行ってみた。
僕自身はこれで3回目か4回目くらい。

展望台へのエレベーターこそ混雑していたけれど、この鄙びた雰囲気はどうだろう。

駐車場だって空いている。窓ガラスにその姿を映す車もまばらだ。







中華バイキングと銘打っているのだが、その実9割方のメニューは中華じゃないというお店には、中国からの団体客。




フットタウン。さびしい。







おなじみ蝋人形館のカオス。







屋上にも昭和の残り香!










建設当時は、日本を元気にする、というメッセージを背負っていたというのに……。

※ぜひ、こちらを見て頂きたいと思う。
プロジェクトX 挑戦者たち 東京タワー 恋人たちの戦い 〜世界一のテレビ塔建設・333mの難工事〜 - NHKオンデマンド







しかし、あらゆる建物-スカイツリーを除いて-を見下ろす特別展望台に登って感じたこともある。
考えてみれば、六本木ヒルズも、東京ミッドタウンも、汐留も、お台場も、どうだ、東京ウォーカーだの、TOKYO1週間だのの誌面を賑わせていた頃からは、ほんの10年も経っていない。だが今はどうだろう。行ってみても、遠くから眺めても、さほどの感慨はあるまい。

その点、東京タワーの、シンボリックな役割だけは、未だ消えてはいないだろう笑!東京タワーから、東京タワーは見えない笑。東京タワー、それは多分、若者にとって、行くためにある場所ではなく、遠くから眺める場所なのだ。

それはまるで、独楽の芯のようにきっちりと、ど真ん中に突き刺さっている。
東京の中心に。日本の中心に。ボクらの憧れの中心に。
きれいに遠心力が伝わるよう、測った場所から伸びている。
時々、暇を持て余した神様が空から手を垂らして、それをゼンマイのネジのようにぐるぐる回す。
ぐるぐる、ぎりぎり、ボクらも回る。
外灯に集まる蚋みたく、ボクらはやって来た。見たこともない明かりを求めて、それに吸い寄せられた。故郷から列車に揺られて、心揺らして、引き寄せられた。

弾き飛ばされる者。吸い込まれる者。放り出される者。目の回る者。誰の力も及ばず、ただ、その力の向かう方角に引っ張られ、いずれかの運命を待つばかりだ。

東京タワー/リリー・フランキー

スカイツリーが出来ても、東京タワーの、こういうところだけは変わらないんじゃないか。すくなくともあと20年くらいは多分。


高校野球のこと(2012)




2年前にはこんなエントリを書いていました。

高校野球のこと

それが今年は現実のものとなってしまった。

7月の地区予選のあたりから、TwitterやFacebookでは本件ばかり書いていたので、関心の無い方々にはさぞ鬱陶しかったろうと思いますが、とにかくもう一生に一度あるかないかくらいのことだと思っていたので、まさかこんなに早く実現するとは。

毎年楽しみにしていた友人たちと、初めての甲子園球場で大いに盛り上がりました。

「ドカベンプレー」で、図らずも全国的な話題になってしまった6日目、鳴門との試合。









チアの居ない、古風な応援スタイル。







最終的に春夏連覇を遂げることになった、強豪大阪桐蔭との苦しい試合。


















大阪桐蔭には負けてしまったけれど、二つの試合を通して、現役生諸君の活躍は、校名を高からしめる素晴らしい試合、応援だったと思います。僕も同級生、先輩、後輩たちと久々に再会し、そして思い切り声を出した最高の夏になりした。

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甲子園、大会第6日甲子園、大会第10日

結婚式




…まあ、最初から最後まで、いろんな意味で彼らしい感じでした。





鎌倉

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3年ぶり?くらいに鎌倉へ行った。
紫陽花の時期なので、メジャーな観光地は、大変な賑わい。

息子をおんぶして、レンタサイクルで、マイナーどころを回った。




しかし、どこへ行くにも、坂や石段を登らねばならないので、非常に辛い。筋肉痛が。

空いているところは空いていて、混んでいるところは本当に混んでいる。













源頼朝の墓。ここもひっそりしていた。
が、それ以上に、日本史上の大人物であるにもかかわらず、あまりにもさびしい。




これでも、江戸後期に島津重豪(=斉彬の祖父にあたる)が整備したというから、徳川期やそれ以前は本当に荒れ果てていたのだろう。

なぜ、島津家が整備したのか。

島津家は、もともと源氏に連なる家であって、島津荘を領したところから始まっている。その祖・忠久は、頼朝の落胤だったという言い伝えまである。だから頼朝の墓をはるかな後年島津家が整備したというのは、それなりに理由のあることと言える。

とはいえ、あえて"末裔"が頼朝の墓を整備するという行為は、あとで源氏を"名乗った"徳川氏に対する、デモンストレーションでもあるように思える。それは島津重豪の時代、つまり、いよいよ幕末へ突入しようかという時期であるということが興味深い。

もうひとつ、頼朝の墓のさらに奥に面白いものがある。




鬱蒼とした石段を登ると、開けた場所が現れる。




先日の台風で、巨木が倒れてしまっていた。




階段は、2本伸びている。







登り切ったところにあるのが、大江広元・毛利季光、そしてさきほどの島津忠久の墓である。

大江広元は、鎌倉幕府に仕えた重臣で、その子季光は毛利荘を領したことから毛利の姓を名乗るようになったという。そう、元就、そして長州藩につながる毛利家の祖である。

この墓所もまた、幕末に長州・島津の両藩が整備したものだが、たまたま、と言えばたまたまだが、この両藩がさらに後年手を組んで、徳川幕府を倒すことになるのだから、因縁が感じられて面白い。

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杉本寺。この苔むした石段が非常に趣深い!







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鎌倉文学館(旧前田侯爵別邸)も初めて行きました。




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この日は横浜に泊まった。一度行ってみたかったホテル・ニューグランド。










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朝、中華街で食べたお粥がやたら美味かった。

帰省



2泊3日だけ帰省してきた。
普段は年末年始か、お盆くらいにしか帰らないので、
学生時代、そして社会人になってからを通じて、この時期に帰省したことはない。

実家は阿蘇の田舎に引っ込んだので、ずいぶんと過ごしやすい気候。
すぐ下を流れる川も、きれいにする取り組みを行った結果、夜には蛍が飛んでいた。
(ちゃんと写せていないですがw)


両親が日曜大工で作ったバルコニーでバーベキューや朝食。
野菜は徒歩30秒の畑で採れたもの。


ここで毎日生活…となると躊躇しないでもないですが、水は湧き水を引いてるし、野菜もうまい。歳を経るごとに、贅沢な環境だなと感じるようになりました。2時間ほどで東京に戻って来ることができるのですが、あまりのギャップに時差ボケっぽくなるほどです。まぁ…そのうち帰るかな…w

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