僕のオフィスビルには某世界的クレジット会社の日本支社が入ってます。
いわゆる外資。ていうか外資。
なのでそこにつとめてらっしゃる方々もすこぶるガイシな容姿でございます。
なんていうか、こう、いかにも帰国子女みたいな。
服装やら髪型は気にしません、みたいな。
でもって男性はみんな古賀議員?みたいな、こう、いい具合なさわやかさと日焼け。
そんで英語べらべらで外国人社員とエレベーターで談笑、でございます。

今朝もそんな感じの方と乗り合わせたんです。
エレベーターの中はとても静か。
月曜の朝はとってもつらい僕。

そんなとき、彼のヘッドフォンから漏れくる音は!!!
「チャララ チャラララ〜」
はうあっ!?
こっ、この切なくも美しいピアノのイントロは!!!
「最初から今まで」ではないかッ!!!
(なぜタイトルを知っているかって?実は僕もmp3を所有しているからだ。)

朝からヨン様かよ!!!
と本気で、本気で突っ込みたくなりました。
なんでその選曲?
なんで今?
そしてこんなに音が漏れるほど爆音で聞くな!!
出社する前からすっかり憔悴しきってしまいました。

でも、なんだか癖になりますよね。あの曲。

今日、僕は夏の音色を買った。(オダギリジョー風に)

大学卒業以来(とはいえまだ3ヶ月だが)に、
友人のIくんに会った。彼は院生なので、
なんだか僕とは遠い世界に行ってしまったような気がしていた。
(彼にしてみれば僕が行ってしまったということになるかな)
国分寺で伝説的な某喫茶店(内装は昭和30年代から変わっていないという)でお互いの近況などのんびりと語り合った。

その後は学生時代最もよく利用した歌広場でカラオケ。
社会人一年生と大学院一年生の奇妙な日曜日。

あ、ふたりとももちろん参院選は忘れてませんよ。

見ての通り、blogに移行してみました。
というかずいぶん前から検討はしていたのですが、
CMをうっていることもあって今話題のlivedoorをみてみましたら、なかなか使い勝手が良さそうなので、やってみました。

さて、なぜblogかといいますと、
ご存知のとおり最近コンテンツの更新がほぼストップ状態、
その上日記ですら公約!?を破って毎日更新してない、
という状態があったからです。
これには僕自身ちょっとまずいな、
と思っていました。
毎日更新でない現状のまま、今のサイト形式だと、
ちょっと面白くないなと思ったので、
blogにしてみた訳です。
これなら日記中心の今の状態を維持したまま、
過去の記事を検索するのもあ容易ですしね。

デザインについては、ほぼ9割方用意されていたテンプレートを
使いました。
トップの写真は昨年撮ったCharles de Gaulle空港の出発ゲートをトリミングしたものです。

色調が気に入ったのと、ゲートってのがなんかいいかなって思って使ってみました。

これからも頑張って更新して行く所存ですので、今後ともよろしくお願いします。

カテゴリ:
<哲学/思想>
「精神分析入門」/ジークムント・フロイト/新潮文庫
 フロイトは精神分析家ですが、歴史的に見ればむしろその思想というか手法が非常に現代思想的、ということがいわれてます。
 世間で言われる「心理テスト」とかって、間違いなくフロイト的「分析」ですが、大抵はこじつけというかバカバカしい代物です。
 フロイトでさえ、夢で見たもの全てを性的欲求や含意と結び付けていまして、僕ちょっと抵抗がありあます。

「存在論的・郵便的」/東浩紀/新潮社
 ポストモダンの思想家の中でも難解を極めるジャック・デリダがテーマなんで、はっきりいって全くよくわからない。
 要するに、あらゆるコミュニケーション、とりわけ書かれたもの(エクリチュール)は、完全に伝えようとする内容を伝えることが出来ない=郵便の誤配可能性
 ということ、でしょうか。著者の院生時代の文章をまとめた博士論文でもありますが、これでサントリー学芸賞もとっています。

「アンチ・オイディプス」/ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ/河出書房
 「資本主義と精神分析」を独特の文体で述べたポストモダンの超大作。その複雑怪奇さ、「戦争機械」など、言い回しはある意味近未来小説のよう。はっきり言ってムリ。

「狂気の歴史」/ミシェル・フーコー/新潮社
 「狂気」についての膨大な歴史資料の中から浮かび上がってきたもの。それは<正常である>とされるこちら側からのまなざし。
 本当の正常とは、狂気とは何なのか?ひいては常識というものがいかに文脈に依存しているか、ということを問い直している、構造主義の古典的一冊。

「言葉と物」/ミシェル・フーコー/新潮社
 「知」とは、その時代時代の物の見方(エピステーメー)によって断絶を経験しているということを、文学、美術などから考察している。

「監獄の誕生」/ミシェル・フーコー/新潮社
 軍隊の訓練、監獄と囚人、そして教育と学校。これらはすべて「見られている(かもしれない)」という意識を内面化させる権力の働きに他ならなかった。
 近代の権力の正体を鮮やかに暴いてみせた名著。学校関係者はこの事実を肝に銘じておかなければならないだろう。

「自由を考える-9.11以降の現代思想」/東浩紀・大澤真幸/NHKブックス
 第一線で活躍する日本の社会学者と哲学者の対談。時代の最先端の事象、とくに情報化社会と権力の関係から生じるであろう問題について論ずる書。
 読みやすく、かつ非常にアクチュアル。

「構造と力-記号論を超えて」/浅田彰/勁草書房
 20年前、空前の現代思想ブーム"ニューアカ"の火付け役。著者はこの本を出した時まだ26歳の大学院生だったが、
 当時まだ邦訳されていなかった最先端の思想書を英独仏の原書で大量に読み込み、フーコーやバルト以降ラカンまでの思想を
 整理、平易に?まとめた、入門書。ただし入門する前にかなりの知識を要するという罠。

「はじめての構造主義/橋爪大三郎/講談社現代新書
 現代思想、とくに表題の構造主義の成り立ちからポスト構造主義へ至る部分までをやさしく解説してみせた本。構造と力よりも全然読みやすい。おすすめ。

「寝ながら学べる構造主義」/内田樹/文春新書
 最近猛烈な勢いで執筆している著者の名前を一躍広めた本書は、「はじめての構造主義」よりもさらに噛み砕いている。
 噛み砕き過ぎという感も否めないですが。

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<論壇モノ>
「郵便的不安たち#」/東浩紀/朝日文庫
 華々しくデビューした著者が、一気にその対象を自身の趣味であるサブカル、文学に拡げた時期の文章をまとめたもの。
 これは面白い。アニメ史的視点からエヴァンゲリオンを論じたものなんか、おすすめ。

「動物化するポストモダン」/東浩紀/講談社現代新書
 もともとオタク的素養を持っている著者が、アニメやパソコンゲームを現代思想的に分析した本。なんだかなあという気もしますが、
 ここまでいくとオタク達も心強いでしょうという内容。

おたくの精神史 一九八〇年代論  「物語消費論」やアニメ原作でも知られる著者。
 あまりアカデミックとはいえないし、まして況んやすべて一人称の回想で書かれているあたり、エッセイという性質から抜け出ることはできないきがします。
 さらに言うと、この人の「ぼく」という一人称がなんだかあまりすきではありません。自分も使っているけれど。
 ただし80年代、「業界」の中心にいただけあって、当時のサブカルの状況の裏話的話しも多く、「おたく」の方々から「そんなの常識じゃん」的内容も、
 僕にしてみれば結構へぇの連続。
 ただしアニメ漫画ネタが多すぎるので、政治や事件ネタを論じたコラムの集大成、「戦後民主主義のリハビリテーション」の方がいいかも。
 こちらはとくに宮崎勤事件の裁判に関わった経験から書かれた数本のコラムは緊迫感に溢れている。

「心理学化する社会-なぜ癒しとトラウマが求められるのか」/斉藤環/PHP出版
 「ひきこもり」と名の付くテレビ番組なんかには必ず出ている、今一番有名な精神科医。実は現代思想にも造詣が深いのですが、
 そんな彼が近年顕著になりつつある社会の中の心理学的言説(癒し、トラウマ、カウンセリング…)の影響に警鐘を鳴らしている。管理人の卒論のヒントにもなりました。

「まぼろしの郊外」/宮台真司/朝日新聞社
 90年代、よくも悪くも「社会学」を普及させた彼。管理人もそんななかで高校時代「援交社会学者」宮台真司を知った。
 センター試験終わった2日後くらいに友人Sクンと、宮台真司が熊本に来る!ってんで学校帰りに学ランで行った。
 数百人の聴衆の中、僕ら以外は全員大人……。
 というわけで僕は心理学系の学科を志望していたにもかかわらず、二次試験の勉強をしながら読んでいた本は社会学系の本ばかり。
 大学入学後その傾向に拍車がかかり、心理学と社会学は「水と油」であるという某教官の言葉をようやく理解。
 僕はもう戻れなくなり、結果その集大成が卒論として心理学<言説>批判として行きついたのでありました。
 さて、僕はほとんどの「宮台本」を読みましたが、何分時事ネタが多いので、もっとも再読に耐えるであろうこの一冊をここでは紹介しておきます。
 この本に収録されている「いまどきの恋文」という論文は必読でしょう。

批評の事情/永江朗/原書房
 論壇って何?それでは、「論壇」で活躍中の人々を考えると、彼らの相関が見えてくる。そのための手がかりとなるであろう一冊。
 このページで紹介している人々もほとんど出てきます。

「もてない男」/小谷野敦/ちくま新書  もともと英米文学を専攻していた著者が、あけすけに男の性を語った本書。
 誰もが興味をもっていながら、今まで誰も書けなかった類いの話が満載。
 著者自身モテなかったと何度も繰り返しており、その点自称モテてしかたなかったらしい宮台真司とは全く違った視点を持っています。
 というか、男性全てが読んで絶対面白いと思うに違いありません。

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<教育(一応専門ですから……)>
「ルーマンの教育システム論」/石戸教嗣/恒星社厚生閣
 とにかく難解と言われるニクラス・ルーマンの社会システム理論。僕も全然ダメでしたが、その分析対象は、世の中の事象のあらゆるものに及びます。
 従ってもちろん教育でも例外ではありません。ルーマンが教育・授業をシステム論的に語った論文をまとめてみせた(たぶん)本邦初のこころみ。
 結構難しい上に、どうしたらいいの?という点もありますが。他のどれとも違う、独自の視点が開けることでしょう。

「教養主義の没落」/竹内洋/中公新書
 著者は教育社会学の第一人者。これまでも歴史的に学校を分析してきましたが、新書だけあって非常に読みやすいです。石原慎太郎を分析しているところもユニーク。
 近年の大学生は実に嘆かわしいですね。
 「学歴貴族の栄光と挫折」(中央公論新社・「日本の近代12」)は、明治以降、特に東大法学部-官僚という構図に見られるような学歴貴族の歴史を丹念に追った書で、図表もカラーで読みやすい。
 「立身・苦学・出世」(講談社現代新書)は受験の歴史を知る上で最良の書と思われます。結構へぇ〜ですよ(笑)。

「差異と欲望-ブルデュー『ディスタンクシオン』を読む」/石坂洋次郎/藤原書店
 フランスの社会学者・ブルデューは、独自の概念を用いながら、社会の、とりわけ教育の構造を分析していきました。学歴とは、学閥とは。  こうした教育に関わる現象をhabitus(ハビトゥス)やdistunction(卓越化)、reproduction(再生産)といった独自の概念を用いて、
 資本主義社会の中で、人々にどのようにして差がついていくのかを、生まれ持った<資本>や、学歴で身に付いていく<資本>などがあり、それが再生産されている現実がある。
 つまり、趣味や文化などは、生まれ持っての階層によってあらかじめ決められてしまっている!まあこういうことを言ったわけです。
 もちろん「ディスタンクシオン」やジャン・クロード・パスロンとの共著「再生産」といった原著に当たるのがいいですが、読んでみて結構難しかったですが、
 ブルデューの翻訳者でもある、著者がこれを日本的文脈とのかかわりも交えて解説した本がこれ。わかりやすくて、超面白いです。
 就職活動を経験した人は、ブルデューは必読でしょう。いろんな意味でね。

「大衆教育社会のゆくえ」/苅谷剛彦/中公新書  今も話題の学力低下論争。だが、それは本当か?という疑問を、近年立続けに出している著書の中で提示し続けている教育社会学者。
 「教育改革の幻想」(ちくま新書)や「学力論争はなぜ不毛なのか」(中公新書ラクレ)などで繰り返し主張していること。
 それは「ゆとり」の拡大を進めようとしている現在の改革路線に対する反対意見、それらの根拠そのものの問題把握が、実態に基づいていなかった、というもの。
 全編で彼が主張している論争にかかわるすべての位置にいる人間の「現状認識の甘さ」の指摘は、鋭く的を射ているといってよいでしょうし、
 なによりデータを多用しているので、説得力があります。
 本書は、さらに専門的に、高校へはほとんど全ての人が行き、大学もその半分は行く、という日本の高等教育社会を巡る実態をデータを駆使して分析、
 国民の「階層化」が進んでいると指摘。実は結構深刻な話なのに、だれも気づかない問題なんだよね。ブルデューともども、読まれるべき書物。

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<小説>
翔ぶが如く/司馬遼太郎/文春文庫
 明治黎明期から明治10年の西南戦争まで、この10年で日本はほとんど現在に通じる体制が完成した。
 当時の政府がなしとげたことは信じられないくらい偉大である。
 この本ではとくに大久保利通・西郷隆盛など薩摩系の人々を中心とした息詰まる政治闘争がなんともドラマティック。
 後半は九州を舞台とした、日本最後の内戦、西南戦争を克明に描く、全10巻の大歴史ロマン。
 昔の政治家はいかに滅私奉公だったか思い知らされるでしょう。

竜馬がゆく/司馬遼太郎/文春文庫
 これはもうお馴染みですね。著者の作品の中でも最も著名なのではないでしょうか。いつの時代も、若者はこれを読んで感動するものです。
 僕もご多聞に漏れず、この非常に独特な歴史上の人物の魅力に取り憑かれました。
 日本人の竜馬像は、この作品によるものが大きいでしょう。
 内容としては、坂本竜馬を中心として、明治維新を描いていくというもの。単に歴史の勉強にもなりますが、
 それよりも当時の若者の志に胸が熱くなる青春小説といえるでしょう。だれしも一気に読んでしまう、最高傑作。

燃えよ剣/司馬遼太郎/新潮文庫
 司馬さんの新撰組ものでは、「新選組血風録」(角川文庫)がポピュラーです。短編集で、なおかつそれぞれが一人の隊士を主人公として描いているので、
 新撰組が非情な殺人集団だったとはいえ、それぞれはとても人間味あふれる個性豊かな集団でもあったということがわかってきます。
 「沖田総司の恋」なんてかなり素敵な作品です。<新選組初心者の方には俄然こちらをお勧めしたい。
 さて、「燃えよ剣」ですが、「新撰組血風録」でも見られる、近藤の副長としての知的で冷静な雰囲気で描かれています。
 僕は中学の頃読みました。とにかく剣と女に生きたって大人の男って感じですね。盟友の近藤や沖田が死んだ後もひとり闘い続けたわけで、最後はとても悲しいものです。
 晩年の写真(とはいえ35歳の若さで亡くなりますが)がこれです。
 確かに今でも通用しそうだ。

花神/司馬遼太郎/新潮文庫
 靖国神社に聳える巨大な銅像、あれ誰だか御存じですか?
 それがこの作品の主人公、大村益二郎です。
 一介の村医者が、日本随一の軍学者となり、明治維新に一級の功績をなすという、極めて数奇な運命を描く。
 通好みな逸品です。

なんとなく、クリスタル/田中康夫新潮文庫
 お馴染みヤッシー。みなさんはあの人を食ったような喋りで、なんだこの人は、って思うでしょうが、すでにその片鱗は当時大変話題になったと言う注釈に現れています。
 一橋大学在学中に図書館で書きあげられ、そのままその年の流行語になってしまった本書。
 僕たちの生活からはちょっ程遠い、学生が車を乗り回し、休みには軽井沢でテニス、そして「ディスコ」………。
 内容はほんと「なんとなく」な感じ。「記号」としてのブランドやアイテムの消費、「物語」を消費していく大学生、この時代の若者。
 ともかく、ちょうど僕がうまれたころの大学生ってこんなだったのね、っていう読み方ができると思います。もちろん全てではないですが。

江戸川乱歩傑作選新/江戸川乱歩/新潮文庫
 綿矢りさクンも太宰治と並んで唯一読んでたらしい「少年探偵シリーズ」、怪人20面相。みんな読みませんでしたか?
 僕は小3で「青銅の魔人」を読んで以来、母親の影響もあって中1の時にはちょっと好きなひとしか読まないような、
 乱歩の大人向けのやつを読んでました。割とグロテスクでおどろおどろしいやつ。
 「鏡地獄」って知ってますか?鏡マニアの男が、凹面鏡にハマって、球体の内側を全部鏡にしちゃってその中に入って、ついにおかしくなるっていう…。
 東京に来て、R大学の真裏に彼の家を発見したときは感動しました。
 ここに挙げたのはそのなかでも比較的代表的な作品が読めるやつ。ですし、短編は角川ホラー文庫からも何冊か出てます。
 もう最高です。

ドクラ・マグラ/夢野久作
 乱歩作品をさらに強烈にしたような世界、夢野久作。角川ホラー文庫から何冊も出てますが、
 ヤバいです。驚異的です。彼の独特の言い回し、独白調の文章、彼流に書くなら「トテモステキに」ってやつです。
 しかしオレはなんでこういう時代背景が大正昭和初期とか好きなのかな。

こころ/夏目漱石/角川文庫
 高校の現代文でやりました。僕には夏目漱石がなぜ日本最高の文豪で、お札にまでなるくらい評価されているのか、
 ということを説明することはできません。従って漱石を読む行為と言うのは、何か高尚な物を読むような、
 ちょうど家でモーツァルトの交響曲をじっと聞くような、そんなイメージが今でも拭い切れません。
 みなさんはどうか知りませんが。しかし一ついえること。
 それは、明治という、制度が変わり、価値観が変わった時代、人々はそうとう混乱したでしょう。
 でもそれが一番自覚されたのは、きっと漱石が描き続けた恋愛によるジレンマとか嫉妬とか、
 現代でも普遍的なものの芽生えを切り取ったということではないでしょうか。
 この作品で登場する、「K」、「私」、「お嬢さん」は僕であり、他の誰でもある気するのです。
 前にも書いた気がしますが、「三四郎」の母校、旧制第五高等学校(現熊本大)は僕の高校のとなりでした。
 「三四郎」の冒頭で出てくる裏山「立田山」は体育の時間のランニングコースでした。

人間失格/太宰治/新潮文庫
 太宰の作品を読んでいると、なんでこんなにも苦悩を、しかも自らの身を削って書いているのか、と思わざるをえません。
 小説を書くために自分の人生を破滅させているのか、人生を破滅させるために小説を書いているのか。
 はたまた日記が小説なのか、小説が日記なのか。いずれにせよ、阿佐ヶ谷界隈でよく酒を飲んでいたという太宰。
 他の文豪とは違う凄みを感じます。

ぺルソナ-三島由紀夫伝/猪瀬直樹/文春文庫
 最近は道路公団問題を中心に活動している猪瀬サン。
 もともと資料収集と分析の鬼なんですけど、太宰を扱った「ピカレスク」に続いて作家を扱ったこちらの一作。
 まさに精力的。よくもまあこんなにインタビューやら資料を読み込んだなあっていう感じです。
 猪瀬さん、イマイチなにしてる人?っていう感じが一般にはありますけれど、
 政治ネタから文芸などなど、幅広い守備範囲をもつ人だけに、実はいろんな読者がいると思います。
 実家にも、猪瀬本は何冊かありました。父親の本ですけれど。

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<その他>
現代建築の冒険/越後島研一/中公新書
 旅行中の暇つぶしに借りて読みました。
 2003年末に出た本で、先日スノッブなセレクトで有名な某書店でも平積みになってて、驚きました。
 タイトルほどドキドキハラハラな内容ではありませんし、著者も認める通りちょっとわかりにくいです。
 その理由には、難しいとかではなくて、写真・図版がカラーでない上に少ないってのが大きい気がしました。
 ただ、戦後の日本建築の流れを、いくつかのパターンとして整理分類してみせた点は凄く分かりやすかった。
 あらためて、巨匠丹下健三の天才ぶりに驚嘆。

カテゴリ:
僕がフランス行きを決意したのには、幾つかの理由がある。
もともと美術が得意ではないクセに(図工はとくに)、
印象派の絵画には妙に惹かれるところがあって、
中学校の頃に模写の課題があったときもClaude Monetの「睡蓮」を選んだ。
(「睡蓮」といっても何十枚もあるわけで、その中のどれだったか、
 ということについては、今となってはわからない。)

絵画についての僕の印象派好きは、東京に出てきて一層はっきりすることになる。
なにしろ、千葉の佐倉にある、河村記念美術館というところでモネ展が催されると聞くや、
学校をサボって、片道3時間の道のりをものともせず、見物に行ったのだから。

他にも理由がある。
これは大学に入ってからのことなのだが、いろいろ読書をしていくうちに、
フーコーだったり、ブルデューだったりと言った、20世紀フランスの思想家たちに興味を持っていた。
そして彼ら世界に名だたる秀才・天才を産み出した、フランスの超エリート教育や、
そのシステムを支える階級社会にも興味を持っっていった。
(実際僕は旅行の途中、一学年が十数人ながら、毎年のように世界的に有名な学者を輩出している、
フランスのトップの学校、「エコール・ノルマル・シュペリウール」を見に行ったりしている。)

そして最大の理由は、エリック・サティという音楽家だろう。
多分高校のはじめごろだったか、サティのCDを買った。
もちろんこの人の音楽が好きだということもあるし、
もともとピアノについては全く教育を受けていない僕だが、
ポップスの他に、クラシックでも割と簡単に弾ける曲があるんだと、
まあそういう感じで出会ったんだと思う。
入門編ともいうべきそのCDには、やはり名曲が揃っていた。
今まで聞いて来た他のクラシックのどれとも違う、
ましてや学校の音楽の授業では習わないような、
純粋な音ながら実に滑稽で謎に満ちている音楽にすっかりハマってしまったわけだ。

彼の名前や音楽を知らなくても、僕の知る限り、
常になんらかのCMで彼の音楽が使われていますが、
軽くその人となりについて触れておく。

1866年、日本で言う所の幕末にフランスのノルマンディー地方で生まれた彼は、
母親がイギリス系だったということもあり、実は英語も喋れたという。
しかし彼は人前で英語を話すことを終生ほとんどしなかったらしい。
唯一友人だった写真家がそう回想しているだけである。

このサイトでみることのできるいくつかの写真の通り、
30代を過ぎてからは黒い山高帽と黒いコート、晴れの日でも手には傘といういでたちで、
パリ郊外のアルクイユ村から毎日パリまでてくてく歩いて通っていたと言う。

終生家庭を持つこともなく極貧の中の生活だったらしいが、
近所の子どもに音楽を教えることもあった彼は、
自ら最低限の暮しをもとめ、肝硬変によって59歳で亡くなるまで、
同時代のドビュッシーなどとも微妙な距離を保ちつつ、
アカデミズムに対して皮肉な言動を続けた反骨の作曲家でした。

彼の死後、アパートで見つかったのは、
楽譜や手紙に記す為の独特なロゴ、そして断片的なイメージや言葉を記したカードが数百枚、
(これは2000年に新宿でやってた展覧会を見に行った。)
そしておびただしい量の傘だったという。

彼の曲のタイトルは極めて奇怪だ。例えば、
「天国の英雄的な門への前奏曲」、「(犬のための)だらだらとした真の前奏曲」、
「乾燥胎児」、
「木でできた太っちょ人形のクロッキーと誘惑的なからかい」、
「気難しい気取り屋の3つの上品なワルツ」
と言った具合で、不気味で奇妙なタイトルについては枚挙に暇がない。

タイトルを見る限り、どれだけおどろおどろしい、不協和音に満ちた曲なのだろう、
と想像していがちだが、
音楽は至って透明で繊細、シンプルで美しいものばかりなのである。

ともかくこういうエキセントリックな音楽家だっただけに、
存命中は華やかな世界からは相手にされることはほとんどなく、
まだ20代だったパブロ・ピカソやジャン・コクトーなど、
ごく少数(なおかつその後頭角を現してくる)の新進芸術家達と、
細々と活動しながら、カフェでピアノを弾いて生計を立てていたようです。

つまり彼は生涯に渡って、
そして現代においても音楽だけはみんなどこかできいたことあるくせに、
ほとんどの人が彼については知らない、という点において、
非常に孤独な人だったと言えるでしょう。

ともかく、僕はその音楽と生き方に大変興味を覚えて、
もしもフランスへ行くことがあったなら、
彼の足跡を辿ってみたい、そう思っていたのでした。
そしてパリ旅行に行った際、彼にまつわる幾つか場所を訪ねてきました。

一つは、彼が20歳前後のころ、モンマルトルで生活していた時に住んでいたアパート。
これは現存しています。


そしてパリ郊外、アルクイユ村のアパート。

これを探すのが相当大変でした。
日本で下調べをしたとき、何人かの人が自分のサイトでアルクイユを訪ねたということを書いていましたが、
どれも苦労した、ということが書いてあって、
ほんとに辿り付けるのかよ、と思った。
(当時はgoogle Mapも、wikipediaもなかったのだ。)

結局「アルクイユ」という地名しかつかめぬまま日本を立ったわけでして、
RER-B線「アルクイユ-カシャン」駅で降りてから、多分2時間くらいは歩き回ったと思います。

アルクイユ村は、ローマ時代から続く水道橋が通る、実に素敵な街でした。

確か、映画「アメリ」でも、この写真とほとんど同じアングルから見た映像があった気がします。

地元の人に訪ねても、英語を解する人も少ない上に、
「どのサティだ?」などどいうあたり、
やっぱり本国フランスでもそこまでの知名度はないのだろうか。。。
(僕の片言の仏語が良くないのだろうが。)

そして諦めかけた頃、八百屋のオヤジに訪ねると、
近くを歩いていた若者を呼び止めて、連れてってやれ、みたいなことを言いました(多分ね)。
彼は英語ができる人で、いぶかしげに僕を見ながらも連れていってくれました。
多分、この東洋人はこんなところまで来てなんなんだ、と思っていたことでしょう。
自分でもそう思います。

その家、実は駅からほど近い所にあり、僕は遠回りしていただけでした。
それでも案内板などないわけで、仕方のないことではありますが。

そのアパートもまた、100年以上前の様子を保ったまま、そこに立っていました。


入り口にはサティが住んでいたことを示す旨のプレートが貼ってありました。

(ヨーロッパに行って驚いたのは、100年前の建物など珍しくなく、
有名人が住んでいたことのある建物だと、必ず入り口になんらかの表示があるものなのです。
木造文化が近年まで続いた日本では考えられないことである。)

モンマルトルの場合もそうですが、周囲の景色が、
サティが歩いていた頃とほとんど変わっていないことを思うと、妙に感動。

そしてその後、さらに歩き回って、ついにサティの墓を発見した。
かなり広い村の墓地ではありましたが、勘をたよりに探しました。
(どこかで見た写真の記憶では、後ろは壁だったので、四方をさがせば良かったのです)
というわけで、墓を撮るのは違法だそうですが、悪意はないので見つかっても許してもらえるだろうと思い、記念撮影。


生前の彼は、日本からわざわざここまでやってくる人間がまさかでてくると、想像していたでしょうか。

かくして僕のちょっと変わった旅行の目的の一つは達成されたわけでありますが、
ここまで来た日本人も、多分にそうはいないでしょう。

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