勝竜寺城を歩く

天正10年6月13日、雨中の山崎の戦いは2時間ほどで大勢が決し、明智光秀は北東方面の勝竜寺城に退きます。



勝竜寺城は、JRで言えば山崎駅からひと駅、長岡京駅から徒歩10分ほどのところにあります。城跡までの道は、「ガラシャ通り」と名付けられています。



城は公園として整備されているエリアの、さらに周りにも拡がっていたようです。



もともと細川家の城として築城されました。細川藤孝の息子、細川忠興に嫁いだ玉、のちのガラシャが新婚時代を過ごした場所です。そういうことで瓦も九曜紋です。



公園内は、管理の方以外誰もいませんでしたw。休憩室・資料室ももちろん一人占め。



うん、明智光秀=細川藤孝を軸にした大河、見てみたい。



天王山方面を眺める。ここから見える山腹には、黒田官兵衛の軍勢がいたと思われます。



御坊塚からわずかに北方の勝竜寺城にもどったときは、戸外の者七百人が従っていたにすぎず、在城の者をあわせても千人を少し出た程度の少人数になっていた。
勝竜寺城は戦場における野戦用の上類で、これを恃んで籠城できるような要害ではない。光秀は夜になれば城を抜けだして近江坂本へ奔るつもりであった。
司馬遼太郎「播磨灘物語(4)


明智光秀はこの北門から、夜影に紛れて城を抜けだしたと伝えられています。実の娘が華やかな新婚時代を送った城を、敗残の将として跡にした光秀の心境はどんなものだったでしょう。



さて、勝竜寺城と長岡京駅のちょうど中間地点に、神足地区があります。住んでいる人達の表札にも神足とあれば、神社の名前も神足ということで、歴史を感じさせる集落ですが、ここにもうひとつ、勝竜寺城の遺構があります。

ガラシャ通りと交差するかたちで現れる藪。



神足神社の境内にあるこの土塁が、かつての勝竜寺の北限だったそうです。



ちょうど発掘調査が行われていました。



わずかな配下とともに、この土塁を乗り越え、北東へと逃れた光秀は、まもなく伏見の小栗栖で命を落とすことになります。

山崎の戦いを歩く

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「軍師官兵衛」もたけなわ、中国大返しを経て、いよいよ山崎の戦いということで、現地視察。
位置を確認しておきましょう。



大阪方面から、京都へ入るには、西国街道の宿場であるこの山崎を通らねばなりません。しかし北からは山、南からは川(しかも合流地点)に挟まれた、くびれた場所になっています。本能寺で信長を倒したものの、細川藤孝や筒井順慶からの協力を得られない中、西方からの秀吉軍のすばやい進撃に備えなければならなくなった明智光秀は、この土地で迎撃をすることにしたわけです。

京都駅からJR東海道本線で15分ほど、山崎駅に到着です。



駅前のコンビニはデイリーヤマザキです。山崎のヤマザキです。



駅前ロータリーの真ん前に、名高い「妙喜庵」があります。日本で最も駅近な国宝なんじゃないかと思われる「待庵」は1ヶ月前の予約制ということで、全く見ることはできません。



歩いた順番とは逆になりますが、ここからはせっかくなので秀吉軍の進路に沿って、西からご紹介していきます。

西国街道


西国街道はJR線と淀川に挟まれるかたちで走っている。新幹線も、阪神高速道路は、さらにその外側を走っているイメージだ。それらが発達しているから、旧街道沿いはとても静かです。

山崎駅から1.5キロほどのところにある、水無瀬神宮。



神門(桃山時代)。石川五右衛門の手形があるということだが、目を凝らしてもどれが手の形なのかわからなかった。



ここは、大阪府で唯一の名水百選ということで有名だ。サントリー山崎蒸溜所の仕込み水も、おそらくこれと同じ水質なんだろう。この日の気温は34℃。うまかった。



いい感じの、風情ある旧道がつづいています。
街道沿いの古そうな木。昔の旅人も目にしたことだろう。



サントリー山崎蒸溜所も見える。ここまで来ておいて、中に入らないというのも我ながら奇特だ。



実は山崎駅からすぐのところに国境がある。ここから東が山城国=京都府乙訓郡大山崎町。西が摂津国=大阪府三島郡島本町。だから、サントリー山崎蒸溜所は京都なイメージが強いが、住所は大阪府なのである。このあたりが国境。



国境にある関大明神社。本殿は室町時代ということだから、山崎の戦いに参加した兵士たちもあるいはこれを横目に戦場に向かったかもしれない。



離宮八幡宮。かつては、油の専売権を持っていて、境内には「本邦精油発祥地」「守護不入」といった石碑が並んでいた。斉藤道三もここで、という伝承もあったようだ。



山崎八幡宮は、社領こそわずかだが、油の専売権をもっていて、この八幡宮のゆるしがなければ、油を売ることも、原料の荏胡麻を産地から運んでくることもできない。

<中略>

いまは境内も縮小し、参詣者もほどんとなく、村の鎮守といったかっこうになってしまっている。
司馬遼太郎「国盗り物語〈1〉


天王山


さて、山崎駅を通り過ぎ、JR線をまたいで、背後に聳える天王山に登ります。



急坂を登り(すでにこの時点で息切れ、猛暑で汗みずくに)、後方から徐々に前進してきた秀吉も本陣を敷いたという宝積寺に。

もし光秀が、秀吉に倍するほどの兵力をもっていたとしたら、かれは、山崎の隘路口(天王山と淀川の間)を揉みにもんで出てこようとする秀吉軍を、この隘路口で撃滅できたであろう。隘路口で撃滅するには、光秀は天王山に大舞台を据えておくことが要訣だったし、秀吉のほうも、光秀にそうさせぬためにこの山を奪っておくことはむろん必要であった。

が、光秀の側は兵力不足だった。

司馬遼太郎「播磨灘物語(4)




この裏から、登山道が伸びています。なかなか厳しい山道。竹やぶの向こうから、時折新幹線の走行音が聞こえてきます。



立ち止まるとすぐに蚊が寄ってくる。登ること30分ほど、ようやく視界が開け、秀吉が千成ひょうたんの旗印を掲げたという地点に。



…しかし読めない。この夏は見に来るひとも増えるだろうから、整備が待たれるw。



高速道路のあたりを流れる川を挟んで、手前右側から池田恒興、中川清秀、高山右近の軍勢、そして向こう側に斉藤利光。ここから左後方、山腹に黒田官兵衛が布陣したそうです。



秀吉は全軍に総攻撃をくだした。ことに淀川の川床を進む右翼部隊をつぎつぎと増加し、前進させた。かれらは砂地、浅瀬を蹴って進み、その前進が異常なほどに早かった。

<中略>

これに斎藤隊はおびえ、退却を開始した。

司馬遼太郎「新史太閤記 (下巻)


新選組も登った


天王山は、それから280年後、再び戦いの舞台になっています。
幕末、京都から追い落とされた長州藩が、復権を狙って挙兵した「禁門の変」です。結局は敗れた真木和泉や肥後藩士らが天王山に立てこもり、新選組に包囲され自刃しました。さらに登った場所に、真木ら十七名の墓が。



永倉新八の記録によれば「敵より声ヲカケ、我ハ長門宰相ノ臣牧和泉互ニ名乗ラレテ戦イイタサン、我モ徳川ノ旗官ノ者ニテ近藤勇ト申」と名乗り合ったあと、17名は小屋に火を放って自刃。「実ニ敵ナカラ討死感心ナリ」と述べています。



肥後藩士の墓。



酒解神社


頂上まであと少し、のところに、酒解神社があります。
こちらは奈良時代の創建。
この本殿は雷で一度燃えており、1820年の再建。



このフェンスに囲まれた神輿庫は、板倉造という様式では国内最古で、国の重要文化財。釘を使っていないらしい。改修をしながらも現在まで同じ建物。



掃除をしていた爺さんが、「せっかく来たんやから」と説明をしてくれた。
近づいてみると、四方はすべて分厚い一枚板を組み合わせて建てられている。なるほど、これはすごい。
「見てみぃ、壁や柱にところどころ古い木材があるやろ。これが奈良時代に建てられた時のものと言われてんねん。京大の先生たちが来て、炭素年代で調べとった。」
「ということは、これは秀吉が戦ったときもここにあったということですね」
「まあ、そういうことやなw」



境内には、水がひっきりなしに音を立てて流れていた。井戸があるんですかと尋ねると、この真下を通っている阪神高速道路のトンネルから染み出してくる地下水を汲み上げているということだった。



西国街道、時折音が聞こえてくる新幹線、地下の阪神高速道路。今も昔も交通の要衝である。

帰宅してサントリーのCMどんなだったかなと思ってみたら、写真に撮ったところが結構出ててました。



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次回、勝竜寺跡を歩く。

ソレイユの丘/井上成美旧邸

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ソレイユの丘


一度は雨の予報だったので家で過ごすつもりでいたが、朝になると横須賀方面は晴れの予報に変わっていた。雨が残る都内を8時に出て、横須賀へ向かった。



横須賀市が運営しており、入場は無料。
ただし、駐車場1,000円、場内のゴーカート600円など、それぞれお金はかかります。レストランも、しらす丼や海軍カレーなど、ご当地グルメを出すお店、バーベキューなんかもありますが、観光地価格でした。
しかし持ち込みは可なので、テントを持ってきて弁当を広げる家族もちらほら。



場内は広く、花畑や野菜の農園、ハーブ園や厩舎などが点在し、とても気持ちいい。遊具だけでなく、水遊びができる池も何ヶ所もあり、これからの季節、家族連れには最高だと思います。露天風呂からは海が見える温泉(ただし天然に非ず)もあります。これは家の近くにほしいです。



ちょうどIZAM夫妻がロケをしておりました。間近で見る吉岡美穂は確かに綺麗で、なぜにIZAM氏と…?という思いを今更ながら強くいたしました。

すぐ近くには漁港がありまして、地元の人がやってるっぽい物産店では各種しらすと地ダコが売ってました。おみやげに買って帰りました。同じものが周辺のスーパーで売ってますが、いくらか価格に乗ってますので、ここで買うのがオススメです。



長井海の手公園 ソレイユの丘
海と夕日の湯
かねしち丸直売所

井上成美旧邸


ここからは関心のある方のみ。井上成美という人を知っていますか?

戦前は徹底して開戦に反対し、戦中は海軍兵学校長として英語教育継続を強行、昭和19年には海軍次官となり、終戦の準備を始めるも大将進級と同時に退官。以後は密かに終戦工作に尽力。終戦後は、20代で未亡人となった一人娘と孫と隠棲。娘は29歳の若さで死去。のち、親類に引き取られるまで1人で孫を育てる。教え子や関係者が援助を申し出るもそれらを頑なに拒んだ結果、生活は困窮を極めていたという。
(一緒に終戦工作をしていた高木惣吉の記念館は出身地の熊本人吉にありますが、昨夏訪れた際は休館日で見学できず!)

その傍ら、近傍の子どもたちを集め、英語や音楽を教え続けた。こちらも、謝礼などは頑として受け付けなかったという。

何年か前、阿川弘之の"海軍提督三部作"、すなわち「山本五十六」「米内光政」「井上成美」(刊行順)を立て続けに読んだ。僕はその中でも「井上成美」をいちばん面白く読んだ。二人に比べて知名度では明らかに劣るが。仕事も家庭も、とにかく頑固一徹、ダメなものはダメ、というのが度外れていた人である。
どう考えても、同僚や上司にいたらちょっと困る。一緒に仕事をするなら山本・米内であって、井上のようなタイプの人間は、真っ先に嫌われて、孤独になってしまうはずだ。家族とてたまったものでは無かったはずだ。

けれども彼のその頑固一徹さが後世に遺したものー、つまり井上が守りぬいた教養教育で育ち、戦後日本を支えることになる数千人の教え子たち、また終戦への功績を思うとき、なんとも不思議な読後感に襲われる。

阿川さん自身が海軍士官だったこともあるし、いわゆる陸軍悪玉論(=海軍善玉論)的な観点から、敢えて書いていないこともあるのかもしれないけれど、その点を割り引いても尚、井上の生き様は胸に迫るものがある。社会生活を送る者として、"正しさ"とはなにか、考えさせられない人は居ないはずだ。
そういう意味で、僕はこの人の生涯に感銘を受け、読後も気になる存在だった。

この井上が戦前に建て、戦後から1975年に亡くなるまで住んでいたのが、横須賀市長井の自邸だ。記念館になっているということ、また、現在は閉館しているということを知っていたので、すぐ近くにある「ソレイユの丘」に行くついでに、見に行ってみた。

「ソレイユの丘」から眺める井上邸方面。



たまたま入った路次に観明寺というお寺があった。そこから伸びる坂道を登っていく。



切り通しや未舗装の道を登る。畑が広がるのどかなところだ。



記念館の周囲は草むしており、ネットで見たとおり、閉館している。





亡くなる日の夕方、庭から海をずっと眺めていたという、その景色がこれだ。



これだけでも満足と思い、来た道を戻っていると、近くの家のご婦人が門から出てきたところに出くわした。会釈を交わして行き過ぎたが、もしかして何か事情を知っているかもしれないと思い、振り返って
「あの、あそこはずっとしまったきりですか?」
と尋ねると、
「そうなんです。とても残念ですが…。
 ただ原稿か何かと、愛用の鞄くらいしか、展示されているものはないようですけれど。
 何か本をお読みになっていらしたんですか?もしかして阿川さんの本ですか?そうですか。亡くなった義理の父に取材をしに、阿川さんがいらしたこともあります。本の中で父の名前が何度か出てきますよ。」

「大将は、それは頑固な感じというか、どう接したらいいのかわからないような雰囲気の方で、いつもここを歩いて買い物などに行かれていました。」
と、立っている地面を指さした。

「えっ、ご存知なんですか?」
「挨拶をすると、こう敬礼を…。」
「皆さんがですか?」
「いえ、大将が、私たちに対してするんです。ビシッと、いつまでも。」
「えーっ!?」

「奥様は…後妻さんだったということですが、いつも着物を着て、髪もきちんと結って、時にはうちに寄ってお茶を飲んでいかれました。私は帯を頂いたこともあります。私の父も海軍で、大将ではなく中将だったのですが、私がここに嫁いで来た後、一度大将をお伺いしたことがあって。父は大変喜んでいました。なんなら君たち夫妻が井上家を継いでくれよって言われたりもしましたが…」

「この辺りの方に英語を教えていたということですが。」
「私ももう70歳になりますが、この下の観明寺の住職さんのお父さんなど、教わっていたのはもう少し上の世代の方々が多いですね。」

など、当時のことを話してくれた。

思いがけず、井上本人と日常接していた人に話を聞くことができたことに、ちょっとした感動を覚えた。
井上が亡くなったのはもう40年くらい前の事だから、80歳くらいの井上が当時20代か30代のご婦人に敬礼をしていたことになる。その光景を想像すると可笑しくもあるが、有り得そうなことだとも思った。

阿川本にある通り、土地建物は井上の海軍兵学校時代の教え子であった深田氏が所有するところとなり、氏の没後は息子夫婦が維持管理と、見学者の応対をしていたというが、家の事情で住みながらの管理を続けることが難しくなり、2、3年前からは都内に住んでいるという。その結果として、閉館状態が続いているということだった。本を読んで感動したからと、遠方から高齢の方が訪ねてくることもあるらしい。

「いずれはまた戻ってきたいということもおっしゃっていましたが、見学のお問い合わせがあると、その時間は外出もできませんし、個人で維持管理するのは大変だったと思います。」

ご婦人は「とても残念なことですけどね…」と繰り返していた。

「ここの坂から、天気がいい時は富士山が見えるんですよ。」
帰宅して阿川本を開くと、度々登場する「観明寺の坂」というのがこの道のことだった。



郷土史散歩『ふるさと横須賀』
歴史が眠る多磨霊園

井上成美 (新潮文庫)
阿川 弘之
新潮社
1992-07-29

米海軍厚木基地を見てきました

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抽選に当たりまして、米軍の厚木基地を見学して参りました。(基地のサイトの写真にいましたw)

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首都圏にある米軍基地といえば横田基地(空軍)、キャンプ座間(陸軍)も有名です。こちらは海軍の施設で、正式には米海軍厚木航空施設海上自衛隊厚木航空基地からなっており、滑走路は海上自衛隊が管制を行う、というような、日米共同運用の施設です。

米軍基地としての役割は米海軍第7艦隊の後方支援ということで、空母ジョージ・ワシントンの艦載機のメンテナンスなどなどを行っています。

面積は東京ディズニーランド10個分超。米海軍が3,000人、働く日本人が1,000人。そして海上自衛隊が2,000人超という、非常に大きなものです。「厚木」と名前がついていますが、実は厚木市に所在しているのではなく、大和、綾瀬、海老名の3市にまたがる格好です。

で、雨で写真はあまり撮れず。


さて、相鉄の駅から徒歩20分くらい(けっこうしんどい!)。
正門前の横断歩道を渡ると、歩道に「米国海軍管理区域」という文字。正門は和風でなかなかユニークなデザインなのですが、保安上の理由から撮影はNG。



海軍の青い迷彩を来た女性兵士にパスポートを見せ、中に入ります。
日本人たちによって建立されたマッカーサーの銅像が出迎えます。「日本の民主々義の父 マッカーサー」とありまして、早速、なかなか色々考えさせられます。桜が美しいですが、やっぱり雨w



A-4スカイホーク、F-4ファントムといった、往年の著名機が展示されています。



芝生の綺麗な競技場。ここで日本の高校生と、米軍の子息の人達とのラグビー親善試合も行なわれているとのこと。



フードコート。支払いはドルです。サブウェイやタコベル、フライドチキンやピザのお店ということで、カロリー高め。ドリンクはSサイズでも十分な大きさでした。米軍のひとに混じって、家族や子どもたちも食べにきてました。



壁掛けのTVではNBAが流れてました。



基地ではソフトバンクが主流のよう。窓口もありました。



マクドナルド。外では絶賛キャンペーン中の、てりたまシリーズの取り扱いはないらしい。



ガチャポン。あまりかわいくないw



チャリティーも盛ん。ちょうどいま、海軍では性的暴行やその被害についての啓発活動が行なわれており、こちらでも資料やグッズを配布していました。




海上自衛隊の施設としては「厚木エアターミナル」が。硫黄島をはじめ、那覇など、国内各地の自衛隊施設との定期便が出ており、一般の空港そっくりなカウンター、出発ロビーが。



HSM-77を見学


第5空母航空団第77海上攻撃ヘリコプター飛行隊"セイバーホーク"(HSM-77 Saberhawks)のハンガーを見学しました。司令官ウィットフィールド中佐、マスコットキャラ"ミスターホーク"の出迎えを受けました。

この部隊は、SH-60Bヘリを運用、最近ではフィリピン地震の災害派遣にも従事したとのこと。



パイロットたち。女性も複数。



出発前にはポップコーンを食べるのが部隊の伝統だそう。



司令官搭乗機。



空母ジョージ・ワシントンの艦載機であることを示している。



整備の真っ最中。



戦争の記憶


冒頭のマッカーサーでお気づきの方も多いとは思いますが、マッカーサーと聞いて誰もが思い出すであろう、パイプをくわえて滑走路に降り立つ写真。あの滑走路が、まさにこの厚木基地の前身、帝国海軍の厚木航空基地でありました。



そういえば、以前、第一生命ビルのマッカーサーの執務室を見たことがある。(ちなみに、"執務室から皇居を見下ろし…"的なイメージもあるかもしれないが、実はこの部屋の窓から皇居は見えない。)


さて、終戦直後には、徹底抗戦を主張する小園安名大佐率いる第三〇二海軍航空隊の武装解除を巡って緊迫に包まれた歴史もあります。先年、その旧海軍の司令部の建物も取り壊しとなり、敷地内に往時を偲ばせるものはあまり残っていないようで、たとえばこのトーチカ(のようなもの)、



あるいは、いまは教会として使用されている旧武道場、そのくらいのようです。



また、敷地内の工事の際には、終戦後破却された「月光」の部分などが出土したそうです。



マッカーサーが降り立った滑走路、現在では米軍のF/A18スーパーホーネットや海上自衛隊のP-3C、US-2、そしてYS-11(堀越二郎設計!)などが使用しています。(YS-11は、現在ここにいる機体も含め、すべてが今年度中に退役してしまうだろうとの説明でした。)





海上自衛隊の資料室には、「大空のサムライ」で有名な坂井三郎氏の揮毫がありました。2000年9月、坂井氏は厚木基地で行われた米軍のパーティに招待され、そこでこの書を認めたという。その帰りに体調不良を訴えられ、そのまま亡くなられたとのことで、坂井氏最後の揮毫と言われているものです。昨年末、米軍側から自衛隊に寄贈されました。



見学を終えて


着任する兵士は、まず日本の文化や伝統、マナーを知る研修からはじめるそうです。



我が国の米軍基地は、その大半が沖縄にあるということで、きょうも普天間のことがニュースになっていました。この厚木基地も、発足以来周辺地域も発展、騒音問題や、まさに正門をくぐってすぐにあったファントムが住宅街に墜落する、といった事故なども起きており(これについては昔絵本で読んだこともあった)、付近に住む人々にとっては深刻な問題があることも忘れてはなりません。

基地の外周を走るマラソン大会など、施設内では頻繁に米軍と自衛隊との交流が行なわれているようですし、基地の外とも、施設の一般開放以外にはお祭りやボランティア活動への参加、また近隣の小学校の英語の授業にアシスタントとして参加、5、6年生は基地に招き、先ほどのフードコートでこれまで習った英語を実際に使ってみよう、という試みも行なわれているそうです。逆に、基地内の子どもたちがそうした小学校を訪問することもあるようです。


何につけても、どう思うか、受け止め方は人それぞれでしょうが、想像で補えることには限界があるでしょうし、実際に自分で見て、歩いてみることで発見することも多く、その重要性をいつも感じています。"大人の社会科見学"もブームと言われて久しいです。まぁ、社会科見学と言っては語弊があるかもしれませんが、僕も可能な限り、いろいろな"現場"を見ようと常々思っていて、首都高の建設現場や浄水場、自衛隊など、いろいろ見させていただきました。

今回も、米軍と自衛隊の協業の"現場"を見ることによって、日々耳にする「日米同盟」といった単語を、なんというか、字面ではなく、より立体的で深みをもって体感できたように思います。

せっかくの桜の季節にもかかわらず、当日はひどい雨で、返す返すも残念。

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▼帰宅途中、スマートフォンで"飛ばし読んだ"記事のひとつ、となるはずでした。

アンパンマン無断上映容疑 自称映画興行者の父子逮捕、全国で1000回超か - MSN産経ニュース

本当に何気なく読んでいて、「そんなこともあるのかな」という程度で、次の記事へ行く、というところでした。

ところが、「北海道から鹿児島まで車に映写機を積んで回った。」この一文を読んだ瞬間、久しく思い出すことが無かった記憶がどんどん蘇ってきました。

▼それは、僕がおそらく小学校3年生か4年生くらいの時のことでありましょう。
他所の学校もそうだったでしょうが、放課後の校門の前では、学習塾だの教材だのと、児童相手に業者がオマケ付のビラを配るなどの勧誘が行なわれていました。

そのひとつに、「映画の上映会」もあったわけです。
土曜の午後だったと思いますが、数百円の料金で、体育館でアニメの映画が見られる、というようなものです。おそらくは数本立てて、脈絡のないラインナップも多々あったように思いますが、僕は見に行ったことが一度もありませんでした。

それがどのような理由だったのか、また、誰に誘われたのか(あるいは自分から行く気になったのか)、全く思い出すことができないのですが、ともかくも、ある土曜の午後、小銭を握って観に行くことになったのですね。

そのおっさんは、お世辞にも綺麗とは言えない、古いワゴン車に乗って現れ、ひとりで映写機をセットしていました。暗幕が引かれ、上映がスタートします。「ドラえもん」、でした。
けれども、それはいつもの(我々が期待していたような)「ドラえもん」ではありませんでした。

車いすの少年が登場し、ドラえもんやのび太に助けてもらいながら、どこかへ一緒に遊びに行く…、というようなものでした。普段テレビや映画で見ているものとは少々異なるテイストに、開始早々「これは偽物ではないのか?」という考えが頭をよぎりました。ただ、セリフの声は、紛うことなき、いつもの彼らの声なのでありました。

学校行事ではありませんので、その場には先生も居ない。いつもそうなのかはわかりませんが、子どもたちばかりの事です、私語を始める者、立ち上がって遊び出す者なども出始めました。おっさんは、いちいちそういう連中を怒鳴りつけておりました。

……「この雰囲気は一体何だ…??」

▼と、思い出したとは言え、僕の記憶の断片はこんなところです。(そう言えば、手作り感が漂うチケットには、確かに、「福祉」「◯◯協議会」「推薦」と言ったような言葉も並んで居たように思います。)
肝心の映画の結末についても、全く覚えては居ないのです。

結局、僕の心に残ったのは、のび太たちが少年を「けんちゃん」と呼んでいた事、子供心に感じた、そこはかとなく漂う物悲しさ、(今にして思えば、それはその作品が持って生まれた、語りにくい事を語ること、啓発のためという、使命ゆえのものだったのかもしれませんね)、おっさんのいかがわしさ(決して人を見かけで判断してはいけないのですが、どうしても、作品のイメージとその方のアトモスフィアとは、重なり合うものではなかったのですね。)

と、そんなことで、その類の「上映会」に足を運んだのは、その時が最初で最後になってしまいまして、ハッキリ申し上げて、後味の良い思い出では決してないのです。どちらかと言えば、奇妙な思い出と言っていいかもしれません。

▼さて、二十数年の間、澱のように沈んでいた、そんなことどもが一気に心の中に立ち上がってきて、あれは一体何だったのか?と、どうしようもなくモヤモヤとした気持ちになって来まして、次の記事を読む手は、ブラウザの検索窓に文字を入力していったのです。

便利な世の中になったもので、もう数秒後には、僕はその作品についてのアウトラインについてを知ることになりました。そういうタイトルで、ストーリーだったのですか…。

ドラえもん ケンちゃんの冒険
映画 ドラえもん ケンちゃんの冒険 - 【 時空遺産 ~ わが青春のノスタルジア ~ 】

そして、これが正式な作品であること、現在ではほぼ視聴することができない状態にあることを知ることになりましたが、それ以上の情報を得ることはできませんでした。そこで居てもたっても居られず、元同僚で「封印作品」の研究でも知られる安藤健二氏にLINEで尋ねてみることにしました。氏もまた、かねてからこの作品について知ってはいたそうですが、残念ながら視聴したことは無いということでした。

▼ともかく、本作品はおそらくある時期まで啓発目的・教育目的ということでフィルムの貸し出しが盛んになされていたのではないかということ、また、件の興行師のおっさんは、それを利用して、教育目的/営利目的というグレーな線上でビジネスをしていたのではなかろうかと、一応の結論に達したところです。映像自体は、どこかの団体の倉庫に、フィルム、あるいはVHSやβとして残ってはいるのでしょう。

平成もまだヒトケタの頃は、冒頭に挙げた記事や、僕の見たおっさんのようなタイプの興行師も珍しくは無かったのでしょうね。(その方がそうでなかったとしたら、お詫びしなければならないが。)

▼さて、その効果はさておき、今も当時も人気アニメの「ドラえもん」を通して、啓発や教育を目的とした、このような意欲的な"番外編"が作られていたということは、もっと知られていてもいいのではないでしょうか。

一方で、なにゆえ本作品が封印状態となっているのか、です。もちろん、古い作品であるから、上映や放送の機会が減少していくのは仕方がないことだと思います。
この作品に限らずですが、別な見方をすると、制作も上映・放送も、それはそれ、これはこれだと、TPOとアウトプットがどんどんと分化していってしまった歴史があると言えるのかもしれません。

制作サイドの変化、視聴者の変化、様々な理由で、メディアが実現したくても実現できないことが増え、表現の幅そのものも狭くなっているとの指摘も度々目にするわけですが、そのような中でこうした取り組みが忘れられてしまったり、新たなチャレンジもしづらくなっているとしたら、それは少し残念なことです。

▼話が逸れましたが、思わぬところから、個人的な"点と点"がつながりましたというご報告でした。

「永遠の0」を見た

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まあノンフィクションだけでなく、戦争を舞台装置として、そのものの意味を問うたり悲惨さを訴えたりする作品は、映画でも小説でもそれこそ無数に存在するわけですし、僕もそういった作品はそれなりに観てきたつもりです。ですから、原作も含め、この「永遠の0」が、岡田君の人物造形やストーリーに水際立ったところがあったかというと、それはそうでもないと思います。本作がまさに遺作となった夏八木さんはじめ、映画で"零戦生き残り"を演じる俳優の方々は確かに素晴らしかったけれども、むしろ、詳しい人や、色々見てきた・読んできた人ほど退屈に思えてしまう可能性が高い。正直僕も9割方そうだと思います。(いや、いいシーンはいくつもあったし、岡田君批判なんてしないぞ!w)

…と、まあいつもならそんなところなんだろうが、今日はエンドロールで泣いてしまいました。

繰り返しますが、いわゆる深イイ話ですね、とか、岡田君の家族を想うキモチに泣いた、とか、そういうわけではありません。

▼夏八木さんが孫達に語りかける台詞がありました。すなわち、"戦争に生き残った者や家族それぞれに物語がある、自分に起きたこともその中のひとつに過ぎない、皆がそれをいちいち表には出さないだけだ"、というような趣旨のものです。

夏になるとニュースの枕言葉のように耳にする、"減っていく戦争体験者"、というフレーズがあります。聞いている我々にとって、どうもそれは書籍やドキュメンタリーの中の「歴史」、つまり何らかの意思決定をする立場だった人や、特異な体験をした人についての話だと錯覚してしまいがちなのですが、それは自分自身だって歴史と地続きであるということをなかなか自覚しないからだと思うのですね。

近頃、NHKで「ファミリーヒストリー」という著名人の祖父母や曾孫のことドキュメンタリー仕立てにして本人に見せる、という番組が放送されております。無名人の話を、それも家族以外の視聴者が見てどうして面白いんだ、という話ですが、かえって著名人の話よりも感動を覚えてしまう側面が確かにあるかと思います(再現映像がやけに感動的に作られているせいもあるけれど)。あれなどまさに市井の人々が時代の中でどう振る舞ったかということについて、(子孫でさえも)いかに目を向けていないか、あなたは自分の先祖がどうだったのかを知ってるのか?ということを突きつけられる番組です。

翻って僕の周辺について言えば、三年前に亡くなった父方の祖父は、男三人兄弟の末っ子でありました。三人とも出征し、兄二人は戦死しています。まだ幼い子ども(僕にとっての大叔父や大叔母)を残して。いわば映画の主人公、宮部久蔵と近しいような話です。母方の祖母も、お兄さんをガダルカナル島で亡くしています。

ところがその実、祖父や祖母に詳しい話を聞いたのはたったの一度だけ、それも小学校の宿題のための取材でしかありませんでした。決して愉快な思い出ではないだろうことは子ども心にもわかっていたので、気が引けたのですね。
大きくなって、教科書的な知識を得れば得るほど、そんなもの好き好んで話題にしたいわけはないだろうという思いが先に立って、なおさら遠慮してしまうようになってしまったのでした。祖父の葬儀で挨拶をして下さった戦友の方も、そのあと程なくして亡くなられました。

たぶん、我々の世代は大方そんな調子か、あるいはそもそも関心がないか、ということではないでしょうか。父母の世代だって大して変わらないのかもしれません。

▼原作では戦闘や戦局の推移にも詳しく立ち入っているので、(ちかごろ毀誉褒貶が喧しい)百田尚樹氏の史観なり立ち位置なりが滲みでてしまっているように思えなくもない箇所がちらほらあります。それは仕方がないと思うけど。

一方、映画ではその辺りを思い切ってカットして(鈴木ちなみも出席!する合コンというマイルドな設定に置き換えたりw)、まさに岡田君とその家族の歴史を繙くということに焦点が絞られていることもあり、原作の執筆のきっかけであるところの、"戦争体験者が本当にいなくなってしまうことへの危機感"が非常にストレートに伝わってくる作品になっていたのではないかと思います。したがって、映画に関しては、いわゆる"右傾エンタメ"か否かといった議論とはちょっと遠いのではないかと思いました。

※ただし、原作を読んでいないと、戦後、松乃を助けた男の正体が誰なのか、余程注意しないとわかりづらいだろうし、"兵装転換"とか"マジックヒューズ"とか言われても、これはわからないんじゃないか。

▼そんなわけで(結末は知ってましたし)孫の視点で祖父や戦争を描く、というところ、百田氏の意図したところに、実に見事にハマってしまったというべきか、ラストの方は映画そっちのけで、我が家の歴史についてを考え始めてしまいました。
井上真央がいっぱい出てくるあたりなのに、井上真央のことよりも、「果たして昔のことについて死んだ祖父に何も聞かないままで良かったのだろうか、いや聞いた方がいいのだというのは手前の都合ではないのか…?」、果ては歳のせいか「自分は祖父や戦死した親戚に対して恥ずかしくない、善き生を生きているのだろうか俺は」というようなことまでが頭をよぎってしまい、そのまま岡田君の敵空母突入に続くサザン(桑田佳祐曲はいつだってベタなのにズルい)の流れでまんまと涙腺が緩んでしまった、と、こういうわけなんですね。

そういうことで、非常に若い子たちがTwitter上で泣いた泣いたと言っていますが、僕と同じ琴線だったのかどうかは知りません。


▼ちなみに、上映前には、能率手帳に続いて、ザ・プロファイラー(NHK、しかも1/1放送の黒田官兵衛スペシャル)と、岡田君出演CMの連続だった。TV番組の番宣とは驚いた。NHKなかなかすごい。


▼あと、音楽はハゲタカの人だが、空戦のシーンのBGMは紅の豚のそれに似てた。VFXは山崎貴作品だけあってさすがに拘っている。空戦シーンを見ていて思い出したんだが、ルーカス・フィルムの、黒人の戦闘機乗りたちの日本公開は無いのでしょうか?
これ。




▼いや〜、風立ちぬに始まり、解説した新書だの、「永遠のゼロ戦」というギリギリなネーミングのムック本まで出ておりまして、実にゼロ戦ブームな1年でしたね。

僕も春先には航空公園に実物を観に行ったし、プラモも作っちゃいましたし、こんなこと言うとかなり好きな人みたいですけどね。

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▼ついでに、こないだ見た「清須会議」について。
大泉洋が非常に素晴らしかった。これは「新選組!」における隊士たちの描き方もそうだったけれど、三谷幸喜の、戦国武将ひとりひとりへの愛情が感じられる作品だった。三谷ファン以上に、時代劇ファンは楽しめると思う(短い感想!)。


▼ま〜、なかなか映画を観に行くヒマが無いのですが、「ゼロ・グラビティ」はぜひ劇場で、とおすすめされてるので観たい。

永遠の0 (講談社文庫)
百田 尚樹
講談社
2009-07-15

集中的に銭湯を巡った話

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PB160889

東京都浴場組合(東京都公衆浴場業生活衛生同業組合)が実施する「江戸湯屋めぐりスタンプラリー」、11月末日の締め切りを前に、ついにコンプリートした。

幸い我が家の周囲(中央線、西武線沿線)には銭湯がけっこう存在していて、すべて自転車で行ける範囲だったから。集めるのはそんなに大変ではなかった。(遠くても、15分くらい。これから寒くなるのでちょっと厳しいけど)

考えてみると、これまでスタンプラリーとか、シールを集めて云々、といった類のものをコンプリートしたことはほとんど無いんじゃないかと思う。集めた時のインセンティブが動機だとしたら、今回はとくに欲しいものでもないだけに(本キャンペーンの景品はストラップだしw)、単に風呂が好きだから、ということになるだろうか。

普段は最寄りの銭湯に月に1回か2回程度行くくらいなのが、わざわざ10軒もめぐったことで、発見もあった。イオンが出るという石が浴室に埋め込まれていたりw、ラドン効果があるという浴槽を設けていたり、お湯は必ず薪で沸かすというところもある。もちろん、本栖湖と富士山が自慢のところもある。

スタンプラリーは、西荻窪の「天狗湯」でコンプリートした。湯船に入った瞬間に、これはなにかチガウ!と思ったら、実は先月から、杉並区内の銭湯組合では群馬県の吾妻からタンクローリーでお湯を持ってきて沸かすというキャンペーンをやっていて、その日が「天狗湯」の番だったのだ。これは良企画。

世の中には風呂嫌いな子もいるのかもしれないが、幸いうちの息子は温泉や風呂が好きで、連れて行くととても喜ぶ。お客さんの平均年齢も高めなので、湯船で声をかけられてちょっとした子育て論を聞くこともしょっちゅうだ。風邪をひかすんじゃないぞとか、ここのお湯は熱めだからかわいそうだ、とか、世話を焼かれることもあった。それもまた楽しい。

※妻は買い物をして待っていることが多い。

冒頭で、中央線沿線だから銭湯が多い、と書いたが、住み始めて10年以上、その間、店じまいしてマンションになってしまった銭湯をいくつも見てきた。大人400円だった料金も、430円、450円と値上げされた。受け付けに座っているのがご高齢の方、というところも多い。杉並区の組合のキャラクターも頑張っているw。ぜひ、これからも銭湯文化が消えずに残っていってほしいのだが…。

次は、杉並区内全制覇か(じつはあと7、8軒のところまで来ている)。

杉並浴場組合公式ホームページ せんとう.jp
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首都圏外郭放水路調圧水槽、いわゆる

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土木系愛好家や特撮ファンにはお馴染みの、首都圏外郭放水路調圧水槽(春日部市)を見てきました。

首都圏外郭放水路とは何か。春日部市をほぼ東西に横切る国道16号線の直下に直径10.9メートルの横穴(シールドトンネル)を堀り、国道16線が河川と交差する場所に掘った立坑と連結、豪雨の際に河川から水を取り込んで江戸川に放流するという仕組みの地下水路であります。

今回見てきた、"神殿"で有名な「調圧水槽」は江戸川脇の地下に設置されていまして、溜まった水を貯めておいて放流するところにある施設になります。

見学は随時受け付けているのですが、本日は一般公開日ということで、最寄りである南桜井駅のシャトルバス乗り場には行列ができていました。ここからは徒歩30~40分とのことで、シャトルバスを選択せざるを得ません。ここに来るまでにすでに1時間半以上かかっていますが、あと少しの辛抱。



会場ではお祭りが開催されており、家族連れで賑わっていました。
調圧水槽はこの広場の真下にあります。



放水路に使用されたシールドマシンがモニュメント化。



コンクリ打ちっぱなしの無骨な階段を降りていきます。



到着です。そんなに深くはありません。降りたのはこのほぼこの天井から床面くらいだと思います。



本当に深いのは、立坑だと思いますが、今回は遠くから眺めるだけ。この立坑の底が国道16号下の横穴(放水路)につながっています。覗きこみたい!



この立坑から入ってきた水が、調圧水槽を通り、巨大ポンプによって汲み上げられ、江戸川へ放流されるわけです。

ポンプ部に至る水門。



今回はポンプに至る、プロペラも見学することが出来ました。こちらは普段の見学は見ることができないそうです。



このプロペラが4機あり、実際に稼働すると1秒あたり25mプール1杯分の水を吸い上げるそうです。

とにかく遠くて、並んで、疲れました。

国土交通省江戸川河川事務所 首都圏外郭放水路

阿佐ヶ谷住宅解体

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久しぶりに様子を見に行ったら、取り壊し作業が佳境を迎えていました。
近所の不動産のおっさんが「そろそろ取り壊しますよ」と言っているのを聞いてから、もう10年以上になります。

ついにか…という感じであります。出会いについてはこちらから。

阿佐ヶ谷住宅の話









在りし日の姿をどうぞ。























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ちなみに、荻窪団地の再開発も、半分ほどが完了しています。
開発前


現状

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昔、そっち方面にいっている友人が、美大に行くような人というのは、なにがしか、たとえば日々生きてること自体を外に向かって表現したいけど、それを言葉で伝えるのが苦手か、あるいはそれ以外の方法で伝えるのが得意だったりする人なんだ、というようなことを言っていて、なるほどねえと妙に感心したことがあった。

あたりまえのことだが、元来、芸術家ーたとえば小説家や画家や音楽家ーは、アウトプットをいつするのかも、アウトプットすること自体をやめるのかも、一貫して本人の自由なはずで、周囲にとやかく言われる職業ではないだろう。

とはいえ、この近代社会では、それだけでは食って行けないので、当然、"娯楽"と"表現"(あるいは技法)の両立を求められることになるのだし、次いで、売れるものを作らなければならない、周囲が欲しているものはこうだ、それを作れば楽になれる、という自らの葛藤、外からの圧力と闘い続けながら、高い次元で"娯楽"と"表現"(あるいは技法)を両立させなければならなくなっていく。

もちろん、才能のある人ほど、人々が何を欲しているかに敏くなるのだろうし、それに寄り添い続けることもできるでしょう。しかしそれに抗うと、今度は"あの人は変わって"しまったと、ファンは離れていく……僕たちは、歌手でもなんでも、その両方をたくさん見てきていると思います。

だから、自身が納得できる"芸術家"、として生き残っていくということは、実に孤独なことなんだろうなあと思う。ゆえに、"娯楽"と"表現"が両立しえた作品や、それを生み出し続ける"巨匠"というのは、数多くの人が目にするし、議論の対象にもなるわけでしょう。

「風立ちぬ」もそう。(ちなみに僕はとても感動しました。)

それだけに、徹頭徹尾"芸術家"だと思える宮崎監督が、去就について一時間半にわたって延々説明させられている、さらには「公式引退の辞」なんてものを発表しているのを見て、まさに"言葉で表現させられてる!彼はさんざん表現しているのに!"と、ちょっと気の毒に思われたのです。スタジオジブリや鈴木Pに対してならまだしも、別に、マスコミに対しても、ぼくたちに対しても、説明責任なんて端からないのですから。(ビジネス的に畳んでいくのは、鈴木Pや星野社長の仕事でしょうし。)

事実、会見では「これからすることは特に決まってない」「映画を見て下さい」というようなことを何度も繰り返していた。それが隠れもない本音なのだろうし、"芸術家"らしい回答だったでしょう。

もっとも、たいていの芸術家というのは生涯芸術家で、亡くなった時にはじめて周囲はその人の新しい作品に触れられなくなることを惜しむわけだから、まだやれる(と少なくとも周りには思われている人)が引退を表明すると、こうなるんだなあという顕著な例だったろう。ただ、ここまで激しく去就が注目される"芸術家"が、これから出るだろうかという気もする。だからといって、国家なんかがそういう人を一から育成するのだ、という議論もまた違うと思うのだが。

というような、当たり前のことを再確認いたしました。

今夜、見るのは何度目かわからない「紅の豚」をテレビで見ていたら、台詞のひとつひとつや舞台設定、ポルコ・ロッソのあり方が、ラストシーンも含めて、宮崎監督そのものの葛藤に思えてきてならなくて(笑)。
そして、"闘い"を続けている庵野監督(宮崎監督が、彼の作品を好きかどうかは別として)に何かを託したように見えるのも頷けるなと、なんだかそんなことを考えてしまった。

僕は、宮崎作品を全部見ているわけではない(でもトトロやラピュタや魔女の宅急便は少なくとも10回以上観てます)し、好きな作品もそうでない作品もあるから、あまりえらそうなことは言えないのですが、3年ぶり4度目くらいで、やめるって言ったのにまた作るのかよ、というのを心のどこかで待っている一人であることは確かなようです。きょう2歳の誕生日を迎えた息子と一緒に、いつか「新作」を見に来たいんですよね、やっぱり。寝かし付けるためにチャリに乗っていて、併せてそんなことも思った


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※自転車で走るコースに、日産自動車荻窪工場跡(今は団地)がある。ここは戦前、中島飛行機荻窪製作所で、零戦のエンジンも作っていたそうです。宮崎監督のお父さんも来たことあるのかなーとか、そういうことを思ったりもしました。

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